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『カドミューム・イェローとプルッシャン・ブリュー』発刊始末記 小寺瑛広

 令和3年(2021)12月21日、私にとって初めての本となる、島村直子氏との共編著『カドミューム・イェローとプルッシャン・ブリュー』が刊行の運びとなった。

 思えば不思議なご縁で成った本である。私は一応(?)文献史学に属する日本近代史/文化史を専門領域としているはずなのだが、日本近代美術史の本を出版してしまった。島村洋二郎という画家じたいがある種の「奇妙な物語」を有しているが、今回の出版の経緯もまた、数奇なドラマ性を帯びている。いささか楽屋オチのような気がしないでもないが、その舞台裏を記録に残しておきたいと思う。


 私が画家・島村洋二郎を知ったのは、2015年6月。たまたま勤務先に洋二郎の甥・宏之氏がいて、「伯父の作品を展示します」というお誘いを頂いたのがきっかけだった。当時の私はようやく日本近代美術史に関心を持ち始めた頃で、当然洋二郎の名前も、師・里見勝蔵の名前すら知らなかった。7月20日に新宿の「ル トリアングル」に足を運び、《忘れられない女(屋根裏のマリア)》など数点を目にしたのが、彼の作品との出会いとなった。この時、宏之氏から姉直子氏を紹介されたが、まさか6年後に共編著を出すことになろうとは、全く想像すらしなかった。

 その後、3度にわたって直子さんの開催する島村洋二郎展で作品を目にする機会に恵まれた。洋二郎作品は一度目にしたら強烈に記憶に残る力を有しているものの、同時代の美術作品とは一線を画した作風ゆえ、私自身それらをどう理解して良いのか、俄かに判断がつかなかったのもまた、事実であった。けれど、直子さんの「伯父を後世に伝えたい」という熱い思いに触れ、自分に何かできることはないだろうか、と頭の中で模索するようになった。


 今回の書籍化の話が初めて出たのは、2019年5月17日であったと記憶する。その日、直子さんと弟の宏之氏との食事会の席で、これまでの活動をまとめたい旨と、監修と解説を私にお願いしたいという話があり、即座に快諾した。この日、かなり前に私が新聞紙上で洋二郎作品《少年と猫》を目にしていたという「偶然」の発覚も、その決断を後押ししたのだった。ただし、私が「総論」を書くという発想は、この時にはまだなかった。


 2019年中に直子さんは展覧会リーフレット掲載文や作品解説、新聞記事、ギャラリートーク、手紙やメール、書評、エッセイなどをワードデータに入力し終え、私が翌2020年初頭より、掲載誌との照合と校注作業に取り掛かった。


 合わせて、同年3月より島村諸家所蔵資料をお預かりし、デジタル化と目録作業を開始した。ちょうどこの作業中にコロナ禍に見舞われ、週1回の出勤以外は自宅待機となっていたため、デジタル化作業は大いに進んだ。一方で、目録化は悩みながらの牛歩作業であった。というのも、一次資料と二次、三次資料をどう分類するかで自分自身でも方針が大きく揺れ続けたのである。内容も、島村家に関係するものと、洋二郎に関係するものに大分され、より良い分類方法の模索は、相当長く(実は発刊後まで)続いた。


 本の構成について直子さんと意見を交わすうちに、洋二郎がどういう人であったのかを良く知る人でなければ、内容が理解できずに手に取ってもらえないのではないか、という思いが頭をもたげてきた。それに、洋二郎作品を後世に伝えていくためには、きちんとした研究をもとに美術館や研究者、美術愛好者に対して発信していく必要があると考えたのである。そして、一次資料はじめ関係資料を自由に読める立場にあり、必要とされる研究水準を理解しているのは…私しかいない。ここに至って、私は「総論」を書くとの決意を固めたのである。


 2021年に入り、未知谷から出版していただけることになり、いよいよ「総論」をまとめなければならない状況に「追い込まれた」。この間、何もしていなかった訳では決して、ない。冒頭と最後は既に原型があり、どう洋二郎の人生、そして資料と向き合うかの模索を続けていた。私の中には、ひとつの指標―恩師・小池寿子の仕事「戸嶋靖昌 存在の地層」(執行草舟『孤高のリアリズム 戸嶋靖昌の芸術』 2016.3 講談社エディトリアル所収)があり、方法論の面で大いに意識して、構想を練り続けていたのである。後にわかったことだが、戸嶋と交流があった画家・麻生三郎のアトリエを洋二郎が訪問していて、間接的に繋がるとは、その時は想像すらしなかった。


 だが、出版社が決まり、出版スケジュールが始まった以上、残された時間は多くない。覚悟を決めて書き始めたものの、進捗は遅い。

 4月30日時点でようやく第1章と第5章をまとめたものの、第2~4章は資料もそれなりに多い上、それぞれの記述が微妙に異なっていたため、「史料批判」が必要になる。公的な記録や、洋二郎の手による間違えようのない一次資料と、事実ではあるが記憶や回想というやや曖昧な二次資料との整合性を確認する作業は、予想よりも時間がかかった。5月17日時点で第2章の1(画家時代第1期)を書き上げた。


 それにも増して私が苦労したのが、作品論である。恩師の教えもあり、多くの美術作品を目にする機会を努めて作ってきたこともあり、「感覚的」には脳内で作品を理解しているつもりではいるが、それを他人に伝えるのが大の苦手なのである。もともと「史学」の人間で、史料に書かれていることを分析し、論を組み立てるトレーニングはしてきた一方、作品を言葉に変換する訓練はしたことがない。むしろ、「自分には出来ない!」と思い、避けてきた分野でもあった。しかし、やるしかない。迷ったときは恩師の「指標」を読み、ある意味手法を真似てみる(恩師に到底及ばないことは百も承知で)ことで挑んだのである。そうして、苦闘の末に5月31日に第2章の2(画家時代第1期作品論)がまとまった。


 だが、まだ3章と4章が残っている。6月18日に第3章の1(画家時代第2期)を、29日に第3章の2(画家時代第2期作品論)を書き終えた。そして、最も資料と作品が多い第4章(画家時代第3期=最晩年)に取り掛かった。途中、それまで言われていた展覧会出品歴と、当時の出品記録が一致しないという大波乱があり、コロナ禍で入館制限のあった東京都現代美術館美術図書室や東京文化財研究所資料閲覧室の予約を取っての確認作業に追われた。そのため第4章の執筆期間は想定以上にかかり、7月中に完成させることは出来なかった。7月29日時点で亡くなる4年前までを仕上げ、その後も1年刻みで評伝部分を書き進めた。最晩年の作であり代表作でもあるクレパス画の作品論は難産となり(ただし、苦しんだだけの発見はあった)、ようやく8月17日に脱稿した。


 約2週間ごとに原稿の続きを入れ続ける生活が約4か月続いたわけだが、「多重債務者」ってこういう気持ちなんだろうなあ…と、感じたのを憶えている。私のこれまでの原稿の中で、最も時間がかかったのが、この「総論・島村洋二郎」である。


 ともあれ、洋二郎の37年間の生涯を駆け抜けた。評伝を書くということは、その人の人生を伴走することなのだと、改めて思う。良くも悪くも、その対象人物に引っ張られる。例えば、洋二郎の入院中に家計を支えるために働き、見舞いになかなか来れない妻に対する想いを記したノートを読んだとき、その「重すぎるラブレター」に気持ちをやられたことを思い出す。これはある意味、役を演じる役者にも通じるかもしれない。


 また、逆に檄を飛ばしたくなる瞬間もたびたび訪れた。結婚して家族を養う立場になった洋二郎は、旧制高校同級生の兄や、先輩である福田恆存に紹介された仕事(国際文化振興会、日本語教育振興会)に就くが、どちらも短期間で辞めてしまう。洋二郎は家族や友人など、周りの人に大変恵まれていた人で、他人事ながら「なんでこのチャンスを!!」と憤ったりしたものだ。がっつく私とは異なり、洋二郎は自分がどうしたいか、でしか動かない。身近な人は大変だったとは思うけれど…。


 たまたま脱稿時点で私が38歳で、時代は違えど洋二郎とほぼ同年生きてきたこともあり、おおよその出来事や葛藤は通ってきた道でもある。時に共感し、時に反発しながら、島村洋二郎の一生を書くという貴重な機会を与えてくださった島村直子さんに、改めて感謝したい。


 2021年12月16日、刷り上がった本が届き、手にした時の感動は一入であった。その後、2022年3月21日には松戸市民劇団のご厚意で、講演会が開催された。本では叶わなかったが(主に予算面で)、洋二郎の作品と、彼が影響を受けた画家の作品と並べて比較することで、80名近い聴衆の皆さんに洋二郎作品の魅力を伝えようと試みた。会場には直子さんのご厚意で、私が選んだ5点の洋二郎作品が展示された。また、各時期の洋二郎の詩を3点選び、その時期の洋二郎の心境を象徴するものとして、講演中に劇団員さんに朗読していただいた。普段の展覧会の企画とは違った演出が出来て、これも貴重な経験となった。主催の松戸市民劇団の皆様にも、改めてお礼申し上げたい。


 最後に白状すると、講演の構想も恩師の講演「存在の地層―邂逅と回帰」から多大な影響を受けている。今回、恩師から受けた学恩は計り知れない。評伝を書く際に用いた史学的方法論を鍛えてくださったもうひとりの恩師にも。

「小池寿子先生、千々和到先生、ありがとうございます」 小寺瑛広(日本近代文化史・松田修資料アーカイブ事業学芸担当)

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