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執筆者の写真Mikaboshi01

『土狭日記』第一回 「地元」の輪郭① -小田原・町田- 鈴木基弘

 いつを起点にすればよいのかよくわからないが、コロナ禍と呼ばれる状況になって、少なくとも半年以上が経った。

 この間、多分にもれず諸々の制約を受けながら日々の生活を送ってきたわけだが、自分にとってもっとも大きな変化とはなんだったのだろうか。

 やがて事態が終息に向かい(そう願いたい)、時が過ぎていくにしたがって、記憶も、今この時の感覚も、間違いなく風化してしまうだろう。

 記憶と感覚の片鱗だけでも留めおくために、コロナ禍下での雑感を記しておきたい。



 あらためて、この半年間で、自分にとってもっとも大きな変化とはなんだったのだろうか。

 不特定多数の人々と相対する接客業に従事している私あるいは同僚にとって、これまでの状況は、恒常的に緊張を強いるものだった。

 リスクを回避するため、本来であれば1年の中でももっとも賑わうはずの繁忙期に休業を余儀なくされたことも、苦渋の記憶として残り続けていくだろう。

 ただ、これらの感覚や記憶は、この状況下では「致し方ないこと」として自身の中で整合的に処理されているのか、今では特別に違和を覚えるものではなくなっている。

 私が鈍感すぎるのかもしれない、が、人間の順応とはすごいものだなとあらためて思う。


 はたして、未消化のまま処理できずに維持され続けている感覚などあるのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、頭にふっと浮かんだのは「地元」という言葉だった。



 私は現在、神奈川県西部の小田原という街に暮らしている。

 都内と横浜で12年暮らした後、4年前にこの街に越してきた。

 越してきた、といっても、もともと生まれてから20歳に至るまでを過ごした土地なので、一般には「地元に帰ってきた」というべきなのかもしれない。たしかに、20年を過ごしたのだから、それなりに土地勘や思い出はある。自分にとって特別な土地であることも確かだ。だが、かねてからこの「地元」という言葉を口にするたび、そこに実感がともなわないというか、いまひとつピンとこないところがあった。


 写真1 “城下町”小田原を打ち出す駅前の商業施設。今年の12月にオープンしたばかり。



 写真2 深夜の早川漁港。小田原駅からだと歩いて30分ほど。



 そもそも「地元」とはなんだろうか。試しに手近な国語辞典を引くと「自分の住んでいる土地。また、出身地」とある。この定義に従えば、小田原は、紛れもなく私にとって地元である。しかし、日常会話の中で「私の地元」と口にする際、そこには単なる出身地とは異なる、ある種の帰属意識が働いている(あるいは求められている)のではないだろうか。

 そこで派生的に「地元意識」という言葉を検索してみたところ、『世界大百科事典』には、概ね次のような解説が記されている。


 「自分の出生地、居住地あるいは勢力範囲である地域に対してもつ意識。郷土意識が異郷、おもに都市にあって芽生えるのに対し、地元意識は中央を意識することから生まれるものといえよう」


 ここでは、「地元意識」と対比的に「郷土意識」という概念について言及されているが、興味深いのはいずれも「中央/地方」という二項を互いに意識しつつも、どちらの側に視座をおくのかによって意識の芽生え方に異なりがあるとしている点である。ふたつの概念を対比させることで幾分すっきりしてくるのは、私がかねてから抱いていた我が街への意識には、地元意識よりも郷土意識に近い側面があるということだ。そして、そこには私の個人史が少なからず反映されているのだと思う。

 先ほど、私は小田原で20歳に至るまでの時間を過ごした、と書いた。しかし、より厳密にいえば、私がこの街を出たのはそこからさらに8年をさかのぼる。


 写真3 神奈川と誤解されがちな町田だが、私にとっては初めての「東京」だった。



 かつて市内の小学校を卒業した私は、公立の中学校には進まず、東京の中高一貫校に進学することになった(とはいえ、東京・神奈川の境にある町田市である)。進学後、交友関係が広がるにつれ、遊び場も学校近くの盛り場から徐々に都心部へと近づいていった。遊び盛りの高校生ともなれば、地元は寝に帰るか、友人との約束のない週末を過ごすだけの場所へと変わっていく。時折、自宅に友人を招いた際、あたかも小さな旅行をしているかのように興奮する姿を目にすると、なるほど、自分の住まう土地が彼らにとっては明らかな異郷なのだということを実感させられた。

 もちろん、生活の軸が都市部へと移ったからといって、私自身の視座が彼らと完全に同質化することはなかっただろう。遊び場だった町田の繁華街や都心も、彼らの多くが住まう東京・横浜の住宅街も、私にとっては変わらず異郷だった。しかし反面、自分の定点とするには確固とした存在感をもたなくなっていた我が街もまた、感覚のうえでは半ば異郷のようなものだったのだと思う。「郷土意識」が異郷(都市)にあって芽生えるのに対し、「地元意識」は中央を意識することから生まれるものであるとするならば、あの頃、異郷から異郷へと移動を繰り返す日々のなかで醸成されていった私の我が街への意識は、両意識の間を定まることなく動き続ける不安定な運動のようなものだったのかもしれない。



 小田原に戻ってからも、叶えば月に数回、都心に出かけるようにしている。とはいえ、訪れるのは決まって、自分がかつて暮らしていた街や、馴染みの深かった場所ばかりなのだが。別段、思い出に浸ることや、属していたコミュニティを懐かしみにいくことが目的ではない(それらがないとも言い切れないが)。かつて歩いていた場所、馴染んでいた土地をたどり直してみると、その都度なかなか面白い発見があるのだ。

 土地はささやなかながらも日々変化するもののように思う。そうした変化は、建物やテナントの入れ替わり、道路の拡張など、物理的な変化に由る場合もあるが、時を経てからかつて過ごした土地を訪ねると、当時は見過ごしていた路地に新たに気がついたり、記憶と実際の風景との間に齟齬があったりと、自身の主観に依存していることが多いことを知る。そうした発見からは、自分や土地の変化、時の経過を実感することもできるのだが、何より自分が見落としていたもの、記憶と実像との齟齬から、その時になってようやく(当時の)私にとっての、その街、その土地の輪郭が浮き彫りになるような気がして、その過程が面白いのだ。もしかすると土地の輪郭とは、そのようにしてしか描けないものなのかもしれない。

 もうひとつ、都心から帰郷すると、我が街の輪郭もまた、わずかながらも鮮明になるような気がしている。自宅の最寄り駅に降り立つ瞬間、自分が暮らす土地が、都市部にはない穏やかで清涼な空気に包まれていることを実感する。人々の歩く速度やリズムの違いからは、この街に流れる時間のあり方自体が、都市のそれとは微妙に異なるものであると思いたくもなる。中央と地方、かつて暮らしていた場所と今生活を営む場所。その間を誰に求められるわけでもなく懲りずに行き来しようとする営みの背景には、未だおぼろげな「地元」の輪郭、自分と土地の関係のあり様を描き直したいという衝動が根強く存在していたのだと思う。そのことを強く実感させられたのが、今回のコロナ禍だった。

 4月初旬に緊急事態宣言が発令されて以降、県境をまたいでの移動が制限された。必然、恒例の散策も中断せざるを得ず、それ以降、我が街を出る機会はほとんど失われた。幸いなことに大きな感染報告のない地元と、百の単位で日々感染者数が増減する都内。人の姿が消えた都心の風景を報道で見るにつけ、電車でわずか90分弱の距離に過ぎない都心と地元の間に、大きな断線があることを意識せざるを得なかった(もちろん、我が街もまた、コロナ禍下において変化を被らなかったわけではないのだが)。

 郷土意識が異郷(都市)にあって芽生えるのに対し、地元意識とは中央を意識することから生まれるものであり、私の意識はこのふたつの間をたえず不安定に行き来するものだった。しかし、物理的に移動が制限される今回の状況下においてはじめて、一方(地方≒地元)から他方(中央≒都市)を意識せざるを得なくなった。それは言い換えれば、自分の「地元意識」と向き合わざるを得なくなったということではないか、という気がしている。


(続)


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