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『土狭日記』第二回 「地元」の輪郭② -恵比寿・武蔵小山― 鈴木基弘

 本誌とも所縁のある国文学者・松田修に、『日本人の旅意識』という小論がある。松田はこの小論のなかで、古代から近世に至る日本人に通底する旅意識として、いくつかの特徴的な要素を抽出している。ざっと取り上げると、往還性(故郷回帰)、流浪の無目的性、紀行の希薄さ、中央(ミヤコ)に対する地方(ヒナ)の従属の構造などである。いずれも多様な論点をはらんでいて興味深いのだが、松田は論を以下のようにはじめている。


「古代日本人のテリトリーは、かなり狭いものであった。たかだか半日、あるいは一日の行程で、すでに他郷であり、他国であった。日常の空間を離れ、非日常の空間に身を置く営為を、いつから旅と称したのか、私は知らない。

(中略)テリトリーのなれから、一歩ふみ出したとき、人は旅人となる。」


 自身のテリトリーの外部へと出ることを「旅」の条件とする松田の指摘は、別に珍しいものではない。もちろん、松田の指摘はこれだけに留まるものではない。「旅」とはしばしば「空間の秩序化・定着化に対して穿たれた人間の意志」と目されるが、我が国の伝統においてそのような主体的・能動的な旅のあり方は希薄であり、なおかつ多くの場合、旅人たる「中央人」はミヤコの優位‐ヒナの従属という空間の秩序を崩そうとはしなかったことを指摘する。こうした「中央/地方」の秩序、あるいは中央から地方を一方向的に眼差す視線の構造は、近いところではたとえば1970年代に国鉄(当時)の「ディスカバー・ジャパン」を強く批判した写真家・中平卓馬など、我が国においても何度となく批判されてきた根の深い問題系であると思われる。ただ、私が気にかかったのはその点ではなく、古代日本人のテリトリーが、半日ないし一日の行程で他郷・他国に至ってしまうほどに、「かなり狭い」ものであったという指摘の方だ。

 松田が指摘する古代日本人のテリトリーとは、小論全体の文脈に沿えば、「未知(地方・非日常)」に対する「既知(中央・日常)」の空間のことであり、旅とは「本源的な意味においては、既知・未知二つの空間のスタティックを破る機能」であるはずが、我が国の旅の伝統においては「既知の空間」から「未知の空間」を眼差すという秩序・構造が終始保持されていると松田は指摘する。松田のいうテリトリーが「既知(中央・日常)」の空間のことだとするならば、当時の日本人、正確には「中央人」にとっての日常の圏域とは、その境を越えるのに半日ないしは一日を要するほどに広い(・・)ものだったのかと、私は驚いてしまう。



 かつての「中央(ミヤコ)」を、現代の「東京」に置き換えてみるとどうだろうか。

 もちろん、両者を単純に同一視することなどできない。松田のいう「中央人」とは氏曰く「典型的には貴種」に属する人々であり、ミヤコに住まわっていた市井の人々をも含み得る概念なのかどうかは定かではなく、また現代の「中央人」とは誰なのかという疑問も残る。そもそも氏のいうテリトリーの狭さとは、ミヤコの物理的領土への指摘なのか、「中央人」の心理的領域を指しているのか、はたまたそのどちらをも含み得るものなのか……。ただ、ここでは氏の小論を学術的に考究したいわけではない(それは手に余る)ので、そこから派生する形で、大まかに現代の東京に暮らす人々にとっての、私的な心理的領域について考えてみたい。ただし、ここでも「東京に暮らす人々」などと一律に括れるわけもないので、以下、あくまでも私の個人的な経験に即した範囲での雑感であることをあらかじめお断りしておく。



 東京に暮らしていると、日常的に東京全体を意識する機会は少ない。稀に意識することがあるとすれば、旅先でどこから来たのか尋ねられた際や、地方と対比的に東京について話したり考えたりせざるを得ないときぐらいではないだろうか。東西、市区、鉄道沿線、駅、街区、通りなどなど、個人や文脈に応じて分割の単位は異なるが、多くの場合、東京はそこに暮らす個人の中で細分化されている。人々の帰属意識もまた、そのように分割されたいずれかの単位に属しているように思われるのだが、面白く感じられたのは、ある特定の場所への帰属意識は、その地に住まうに至る個々人のさまざまな動機に裏打ちされつつも、時に他者からの視線を多分に内面化しているように思われる点だ。


 当時は足を運ぶことの少なかった「恵比寿ガーデンプレイス」からの眺め

   


 私自身は東京に暮らした9年間を、恵比寿という街で過ごした。恵比寿を選んだ理由は単純で、通学していた大学のキャンパスに近かったこと、また親類の持ち家に安く住まわせてもらうことができたからだ。アクセスのよさに加えて、小洒落た飲食店の多さからか、いわゆる「住みたい街ランキング」の上位にあがる人気のエリアである。地元を離れての初めての生活ということもあり、暮らし始めて数年間は刺激的な生活を送れていたと思う。一人で酒を飲みに行くことを覚えたのもこの頃のことだ。

 新たな生活、恵比寿という街にも徐々に慣れはじめたころ、この街に暮らす人々・集う人々にある種の類型がみられることに気づきはじめた。いや、正しくは、その街に向ける人々の視線が一定のイメージにもとづいていることを知った。こう記すとなんだか大げさだが、たとえば居住エリアを尋ねられた際に「恵比寿」と答えると、ほぼ例外なく「洒落ているね」と返される。たしかに、洒落たもの、華やかなものへの憧れや愛着がないわけではなかったが、そのことを条件に住む場所を選択したわけではなかったので、毎度戸惑いを覚えた。ただ、周囲を見渡せばそうした趣味嗜好をもつ人々が多いことも確かで、自分自身、近所を散歩する際にもあまりラフな格好で出歩くことには多少の憚りがあったのだから、そのことにまるで気づかなかったわけではなかった(今にして思えばあまりに自意識過剰で恥ずかしくなるのだが……)。自分自身も、街に対して抱かれるイメージ、向けられる視線を少なからず内面化し、見合うように振舞っていたのだと思う。

 そうした自分の振る舞いに気がつくと、恵比寿での生活がひどく窮屈なものに思えてきた。そもそも学生・新社会人の身分では、物価相場の面でもかなり無理もあった。

 ちょうどその頃のこと、身体の調子を崩したことをきっかけに近所の銭湯に通いはじめたのだが(当時は恵比寿の街中にも銭湯があったのだ)、さらに調べてみると下宿先から自転車で10分強程の距離のところに源泉かけ流しの温泉銭湯があることがわかった。夏の夕暮れ時、さっそく自転車をこいで訪ねてみた。銭湯そのものも噂にたがわず素晴らしかったのだが、それ以上に心動かされたのは、長大なアーケード商店街と昭和名残の駅前飲食街をシンボルとした街の雰囲気そのものだった。品川区の武蔵小山という街である。

 武蔵小山もまた生活のしやすさから居住エリアとして人気があり、家賃相場からするとそう形容してよいのかはわからないが、ほどよく地に足のついた庶民的な雰囲気をまとった街だ。その日、銭湯あがりに駅前飲食街の立ち飲み屋で過ごしたひと時の心地よさは、今でも忘れない。誰かの視線を意識することなく、ラフに、一人で寛ぐ時間。懐の心配をする必要もない。街の雰囲気はもちろんのこと、ところかわれば人の心境もまたここまで違ってくるものなのだな、としみじみと思った。


「りゅえる」と呼ばれた昭和名残の駅前飲食街も整備され、今では見る影もない。  



 先に述べてきたことは要約すれば、街々によって雰囲気は異なり、その土地ごとで訪ねる人の心境もかわってくる、ということに過ぎないのだから、何も東京に限った話ではないだろう。わずかながら特徴的だと思えるのは、街々の雰囲気は、歴史や経済といったある程度自明的な要素にのみ依拠しているわけではなく、そこに住まう人々・集う人々の嗜好/志向に応じて醸成されるイメージ、そのイメージを内面化した人々の振る舞いによっても形づくられているということぐらいだろうか(この指摘も珍しいものではない)。

 ただ、松田の小論をきっかけに自身の経験を掘り起こしてみたかったのは、東京に暮らす人々、少なくとも当時の私にとっての「既知の空間」とは、半日はおろか、わずか10分強程でその境界を越えてしまう程に「かなり狭い」ものだったということだ。あの日、武蔵小山の駅前飲食街で感じた解放感は、恵比寿という街の中での自演的な振舞いからの解放であったと同時に、自分が日常的に身を置いている空間とは異質な、非日常の空間に身を置いていることによるものであったと思う。東京という都市には、おそらくこうした非日常の空間が点在している。もちろん、ある空間を異質なものたらしめる境界線は、個々人が抱いている日常空間の圏域に応じて変わってくるものなのだろうが、自身の経験に即していうならば、その圏域が東京全体を覆うことは日常的にはないだろう。「テリトリーのなれから、一歩ふみ出したとき、人は旅人となる」のだとするならば、わずか10分の距離でさえ、人は旅人になることができるのだ。


(続)


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