まるで取り憑かれた様に何度も何度も、その世界で眠りに落ちたいと願わせる様な映画がある。『去年マリエンバートで』が持つ重力は絶対孤独の位相にて咲く絢爛の美である。紛れもない愛の映画でありながら、体温が通った官能は葬られ、流れていた血も凍結し、モノクロの画に散らばって輝く。不滅と別離、接触と拒絶が重なり合う様に銀幕の標本に封じ込められた本作は、指にいまだ残る在りし日の恋人の芳香に言葉を傾け、迷宮に出向く倒錯に愉悦を覚える独身者たちの映画だ。
独身者たち…同じ時間軸、同じ空間での逢瀬が叶わない恋人たちがいる。亡者である様な恋人への呼びかけ、接触が叶う事の無い人物に対する呼びかけ、不在へ呼びかける行為に甘美を噛み締める者たちがいる。永遠の愛を所有するということは、無機的な匿名の者、美しき彫像に恋人の言葉を語らせる試みでは無かろうか。デルフィーヌ・セイリグが演じる女Aが銀幕にて示す、灰色の陶器の様な肌。体温を破棄した聖なる匿名性を与えられた女、羽根つきのケープやら、シャネルの壮麗な衣装と装身具を灯りのもとに煌めかせる女は、デュシャン『大ガラス』にて独身者たちへ火花を散らす麗しい骸骨の様であり、男の悲痛な呼びかけの周りを飛び回りながら拒絶の放射物を描く夜蛾の様である。多くの創作者たちは、この世界では実現する筈もない永遠の愛への欲求を言葉とイメージに、それらが生み出す装置に託してきたのでは無かろうか。彼、彼女は遠くにいるのか、それとも既に死んでいるのか? 愛の挫折は独身者たちの内部で燻る不死性への欲求を機械装置へと向かわせる。記憶の底で煌めく恋人の微笑みを、涙を、絶望に打ちひしがれた顔を、慄く姿を、ノン、と囁く唇を、人工的な分身を生み、無限に反復可能とする映画という装置で描き出した本作は、アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』で無人の島に延々と映写され続ける映像の様である。
『去年マリエンバートで』は亡者と化した恋人が、腐敗直前で凍結した蜜月が、再びこちらに向かって大仰に振り返り、微笑み、睨みつけ、冷感症の接吻を浴びせる映画である。瀟洒な孤独が犇く廊下を一歩、また一歩と進むごと立ち昇る閃光に微睡を与えられる映画である。美しい睡眠の映画である。厚い絨毯に沈む音、化粧漆喰の繊毛に宿る音、流れゆく言葉と映像が物憂げに愛撫しあっては愛の記憶を幾重にも産み続ける、その様を暗闇で目撃することを許された眼科医の証人たちは、夢魔を意識しながら眠りに落ちてしまう。叫びの映画である。甘美な記憶に走る亀裂から悲痛な叫びが走り出す。推測や希望、現実が鬩ぎ合い、対立し合うひとりの男の内的独白の叫びが凍結し、彷徨い続けている。
そして『去年マリエンバートで』は確かに愛の映画である。独身者による愛の映画である。
「まるで耳自体が…またしてもこの廊下を歩き、古い時代の建物の広間から広間、回廊から回廊をよぎる。豪奢な、バロック調の、陰鬱で宏大なホテルの廊下は果てしなく続く…」ガラスの破片を、壊れたハイヒールを、砕けた石柱を掻き集めるが如く、愛の思い出を手繰り呪いの様に繰り返される言葉によってその場所は精製されてゆく。暗く冷たい装飾が過剰に施され、分断された記憶の底に直立する彫像たち、作者によって無機的な匿名性を与えられた人物たちが佇むマリエンバートの洋館は、切断された情熱を受け、視覚や聴覚の複製に永遠の愛を託す事を決めた独身者が棲まう場所である。凝固したポーズの彫像と花崗岩の敷石の間、恋人とふたりきり、迷宮で永遠に迷い続けることのある種の幸福、独身者たちから差し伸べられた誘いの言葉である。感情の曖昧さに、記憶の混沌に、愛への希求が交錯するごとに、マリエンバートにそびえる洋館は姿を現す。痛ましく、熾烈な呼びかけに身を任せ、とめどもない円環に寝そべった、静止する暗闇より歩み出た恋人が、もう一度こちらに向かって微笑み、麗しく睨みつける様を目に焼き付けたいと願う時に。
(和泉萌香)
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