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映画評論 影との逍遥 第三回「私の夜はあなたの昼より美しい」和泉萌香



 とある場所で男と女が出会う。街角であってもカフェであっても、バーや映画館であってもいい。その出会いが単に一晩、一日だけの関係で終わりを迎えるものでも、あるいはそれから何日も何年もかけて物語を育んでゆくものでもなく、愛、そのもの自体に用意された出会いだったとしたら。日常になる事を望まない愛、一度に魂を燃やし尽くしてしまうような愛、日常から離れたところでないとそぐわないような危険な愛、生活の一部となる事を望まない愛を行う為に用意された爆弾のスイッチだとしたら。物語を紡ぐ前に愛の方から物語を望んだ場合、何が必要とされるのであろうか。愛を行う為に引き合わされた人間二人は、過食症のように時を貪りあって速度を早めていかねばならない。余りに大きく奇跡の光によって約束された愛を与えられた肉体と精神は、既存の時間軸で行ったらばきっとだんだん擦り切れ、茹だる夜に汗粒を敷き詰めた光沢の肌の輝きは失われていき、硬直してしまうだろう。虚構の世界ではしばし狂おしい蜜月の時刻に永遠の愛をとどめておくことが許される。それは愛の舞台を生きる登場人物たちによって「切断」されることも、または物語そのものによって終止符という名のホルマリンに漬けられることもある。本作は引き合わされたある二人が、出会いから最後までただ愛を体現し海に横たわるまでの様を激情的に描いた物語であり、過去も未来も感情までも必要としない。愛を描くためだけの物語は倦怠や二番煎じの苦悩が絡み合った日常や正気を排して、登場人物も愛のために出現する。

 トラウマを抱える言語学者の男と少女を心に宿したまま売れっ子歌手となった女の、たった三日三晩の愛を言葉が持ち得る血と汗を吹き出させるかのように眩く描いたラファエル・ビエドゥー原作『私の夜はあなたの昼より美しい』は、ポーランドの鬼才アンジェイ・ズラウスキー監督によって新たなキーワードを携え別の表情を見せる。そのキーワードとは「言葉」である。主人公リュカ・ボワイヤンヴァルはあるウイルスによって脳を犯されており、言葉を発し続けなければ失ってしまうという状態にある。リュカと全く突然に出会う女ブランシュは原作と異なり、特殊能力のある人物である。彼女は他者の背景を読み取ることができ、客の秘密や過去をカジノで暴露することで金を稼いでいる、欲望塗れの大人達に囲まれた“スター”である。韻を踏んでいるリュカの言葉は脈略が無くブランシュとも会話が噛み合っているとは言えないが、延々と言葉を発し続ける。反対にブランシュは「言いたいことが分からない」と言って泣く。ブランシュ=白と名付けられた彼女は他者が抱える時には真っ黒な腹わたを吐き出す為の媒体として登場する。ズラウスキー監督作品に登場する人物はほとんどが皆狂人とも言えるような過激で爆発的躁病の人物であり、言葉も行動もまるで嘔吐するかの如く爆速で流れ続ける。リュカとブランシュは『狂気の愛』(1985)の人物たちのようなまでのエキセントリックさは無いが、彼らの「言葉」が愛の物語の速度を早め、時間を喰らい、そして美しく作用していると言えよう。なぜならリュカの発する止めどない言葉は現前する物事から連想されるある種自我を超えた言葉であり、後半恐ろしいまでの愛に気がついたブランシュの叫びというのも、丸裸の言語だからだ。社会や倫理という枠組みの中にあっては、現実の言葉は仮面を要するが、リュカとブランシュはその仮面を、虚飾を排されており、「哀しい」「痛い」「欲しい」「愛している」その丸裸の言葉を燃やし尽くしていくことによって「何にも堕さない愛」が永久に残ることになるのである。

 損なわれることの無いある愛というのは、喪失を抱え続けることによって達成されるものでもあるかもしれない。肉体の不在を、それが起こり得ないということを所有し続けることによって。起こる前に失ってしまうというやり方によって。しかし本作の二人は灰色の肌をしたマネキン人形のようでは無く、肉体を思い切りスクリーンに晒しだす。ブランシュを演じるソフィ・マルソーの血ではちきれそうな生命力に溢れた、すべすべと躍動する大理石のように美しい身体の魅力が発揮され、重さを持った肉体もまた大輪の花火のように散ってゆく様が描かれることにより、鮮烈で立体的な感動を呼び起こすのだ。

 人はこの現実において…時間が支配する現実において、愛が日常と変わることを望まなかった時、日常となりようが無い愛に出会った時、狂気、と呼ぶのだろうか。そんな愛が突撃するようにやってきてしまった時、何を思えば良いのであろうか。本作のように、海に抱かれて眠ることを望むのだろうか。海はどの時代、どの場所にあっても、そんな恋人たちを待っているのだろうか。愛の舞台は、海に設定されることを望むのだろうか。大きな揺りかごに抱かれて、完璧と言える美しいものに身体を寄せて、永久に眠ることを望むのだろうか。


(和泉萌香)

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