ある感傷を持つ者たちがいる。一度太陽まで舞い上がり、堕ちてなお生き続ける者たち、そのような宿命を持つ者たちが持つ感傷というのは冷たくてある種優しく、透徹している。彼はその星から落っこちてきた。水が枯渇した惑星から遥々落ちてきた、ニュートンという重力を感じさせる名前を名乗る男は、この世の全てが耐えられないというくらいに、少しでも腐敗や有毒に触れれば壊れてしまうというように酷く痩せ、薄い紛い物の皮膚に覆われて、アンドロギュノスな美に愛されて、無比だった。デヴィッド・ボウイ。デヴィッド・ボウイ。彼が火星に帰ってから、もう五年が経とうとしている。奇跡のような事件を、非現実を慕う気分の時を、不可解なことを、麗しい虚無に涙を流したくなる時に、その名を呟くように呼びたくなる。デヴィッド・ボウイ。永遠に世界を魅了し続けるであろう男、気の触れた男優は本作『地球に落ちてきた男』で、ノー・メイキャップの時に(怪しげな黄色の、爬虫類めいた瞳を現す前に)既に「彼は宇宙人だ」と納得させる説得力を持って登場する。
ニューメキシコの湖に宇宙船が不時着し、男が駆け下りていく。彼は地球上に存在する水資源を持ち帰ることを目的とした宇宙人、トーマス・ジェローム・ニュートンだ。ニュートンはいくつかの科学的技術による特許をもとに会社を築き、巨万の富を得る。ニューメキシコを再訪したニュートンはそこでメリー=ルウという女性と出会い、彼女を通じてアルコールに溺れてゆく。だが資金も貯まって故郷に帰ろうとするも、彼はライバル会社の企みによって阻止され、ホテルに監禁されて数十年を過ごすことになる。故郷の妻や子供に会うことも無く…
ウォルター・テヴィスによる同名小説を原作とする本作は、アメリカを舞台にニコラス・ローグ監督、ボウイはじめイギリス人たちが集い撮影するという、「そこを故郷としない者たちから見るアメリカ」という点で、ヴィム・ヴェンダース監督作品『パリ、テキサス』も彷彿とさせる。妻子を故郷に残してきたトーマス・ジェローム・ニュートンは、地球人メリー=ルウとのセックスに溺れるも、彼女の泣き顔に微笑みを浴びせ、それでいて傍にはい続ける、歪で乾いた愛を与えてみせる(口論の際に彼女に見せる笑顔は彼の鋭利な骨格が残酷に威力を発揮し、皮肉にもぞっとするほど美しい)。メリー=ルウとの同棲中に、いくつものテレビ画面の前に座り込みひたすら情報を追う、もしくはエンプティ・カロリーとして摂取するようになって痩せこけた容れ物と変貌するニュートンの姿は、液晶画面ひとつで何百もの情報を一度に得ることができるようになった、なってしまった現代人の虚さとも重なる。世界の器官となったテクノロジー。水しか飲みやしなかったニュートンはアルコールに溺れ、目まぐるしいエレクトリックのエクスタシーに身を委ね、異星人であり、堕天使の様相をなしてゆく。そうして堕落と崩壊の匂い漂う中毒に身を任せておきながら、いくら時が経とうと彼の姿は決して変わることなく、美しい。本人の意思と反しようが反しまいが、ただひとり美しいというのは、根本は何とも交わることのない/できない、異質なものであるということなのだ。映画にある、奇妙な浮遊感、どこか心の内側がつんと冷たくなり、がらんどうに放られるような心地——それは本作の根底に、底の知れない孤独が詰まっているからであろう。全編にわたり、堪えがたい孤独が物憂げにたゆたい、銃声や粉砕直前のレコードの音と共に不毛な日々が軋む(終盤、再会したメリー=ルウと拳銃を発砲しながらセックスに耽るシーンでの、一瞬映るボウイの萎えたままのペニスのように)。帰るべき場所が死にゆく運命と知りつつ、何もする術の無い者の抱えきれない虚無、「訪問者(ヴィジター)」であり続ける悲しみをうたった、脆弱な美に占められた映画なのだ。
デヴィッド・ボウイは自らを「バロウズの一番弟子」なんて名乗っていた。デヴィッド・ボウイと、二十世紀アメリカのランボー、ビート世代を代表する作家、羨むくらいに好き放題に生きた作家ウィリアム・バロウズは映画が製作される前の1974年に対談している。ラストシーン、ボウイは細い身体をスーツで包み、中折れ帽をかぶってバロウズ・ルックを披露している。「のみすぎですよ」というボーイの言葉にがっくりと項垂れて、映画の中心には中折れ帽の空白が宙吊りになり、虚無が横たわったままに終わっていく。ウィリアム・バロウズ。妻を射殺し逃げおおせ、ありとあらゆる薬物で肉体を染め上げ、前衛のアーティストたちとコラボレーションし、自分もアートパフォーマンスを行い、だが晩年にはかえりみなかった家族を思って悔いた男。現代の暗部に自らを探査機たらしめて潜り込む業を得ながら、妻の射殺事件のことは書かなかった男。銀色のボディに仮の皮膚を纏い“人間”に擬態するニュートン、中毒者となったニュートン、宇宙の彼方に音楽を発信し続けるニュートンの姿は、少年時代「ヒツジを襲うオオカミ」だと級友の父親に言われた存在をやけにかっちりとしたスーツ姿に入れ、危険な文章を綴りながら、確かに孤独と感傷の尾鰭がついている、バロウズの姿にどこか重ならないだろうか。
愛したことがあるかもしれない、だけれどその場所には帰れない。常に異境の地で放浪し続ける訪問者。イカロスたちの孤独はいくら悲しくたって透明だ。美しい虚無と共にある人間は、今日もひとりで酒をのむ。別れの言葉はいつも遅く、荒野に白馬の夢をみる。『地球に落ちて来た男』——がらんどうを逍遙し、笑みなき微笑みを浮かべて、アルコール色の時刻を享受したい時に最適の虚無の映画である。最後に、作者が本作にぴったりだと思う、ウィリアム・バロウズ作『ソフトマシーン』第三版、イギリス版の最後の一行をご紹介して締めくくろう。「彼は悲しそうにソフトマシーンから手をふる。死んだ指が煙のなか、ジブラルタルを指している。」
(和泉萌香)
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