映画は動くものだ。物語、起こることを流動する暗闇と光と色彩で描くものだ。『インディア・ソング』(1975)の映像は、登場する彼らは、太陽であってさえも、ぴたりと凝固したように静止し、時折緩慢に動きを見せるだけだ。あなたの沈黙、胸が張り裂けそうな彼女の沈黙は、泣き声は、眩暈は、映画の静止が請け負っている。微かに揺らめいているのは線香の煙だけ。もうここには霞しかないというように。あなたの物語を大きく占めているものはもうひとつ、喪失だろう。欠如。忘却。失うことによって、それを行わない、欠如させてしまう、ということによって手に入れる永遠。愛。『インディア・ソング』画面に登場する彼女…アンヌ=マリー・ストレッテルも、美貌の愛人たちも、副領事も、もうここにはいない。気が違うくらいの愛は終止符を以てして、死を以てして、喪失、忘却を以てして、あなたによって永遠となる。虚構の世界に刻印されることを許される。
1930年代、カルカッタのフランス大使館。副領事は、大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルへの不可能な愛で狂気に陥る。決して動いてはいけない、目を瞑ってはいけない、そうして何も見ていない。目を瞑りなさい、視力を最も強めるために、だけれども何も映ってはいない。たじろぐことなく見つめられなさい、眠るように存在を発揮しなさい、女の黒衣のガウンをゆっくりと脱がせるように、浮かび上がる言葉、書かれようとしている言葉の旋律を受け入れなさい、そんな風に『インディア・ソング』は時間を奪う。そこへ帰してゆく。海に。くすんだ空、灰色とヴァイオレットが混ざったような空に紅の太陽が浮かんでいる。瀟洒な広間、森、乞食女…“声”は“かつてあった”出来事を語り、映像は“かつてあった”出来事をまるでさも“現在行われていること”のように出現させる。亡霊たちだ。アンヌ=マリー・ストレッテル。彼らは佇み、ピアノ曲のタンゴに合わせて緩やかに踊る。過去に進行していた物語、記憶。記憶はもう持ち主がいなかったとしても、そのものとして残り続けているのだ。持ち主を失った記憶は“映像”という媒体を借り、仮そめの姿を借りた亡霊たちが演じることにより、再び出現する。
デルフィーヌ・セイリグ。愛の挫折があり、曖昧な記憶や不死性への渇望や願望が入り混じった迷宮で再びこちらに向かって振り返る、冷感症の女神のように存在してみせた『去年マリエンバートで』(1961)とは異なり、『インディア・ソング』では色づいた映像の中で蒼白な顔をして登場する。迷宮で彷徨っていた女は今、喪失が既に“起こった”仮そめの空間において背筋を伸ばし、見つめている…鏡を。そうして何も見つめていない。あなたのエクリールは、それから、官能でも満たされている。映画も官能で満たされている。それは月食の夜から滴り落ちるような官能。身体の内側で愉悦から生じる震えが起こり続けているような官能。目を背けさせながら、妖しげに指を深淵部に誘うような官能。冒頭に浮かぶ太陽から、デルフィーヌ・セイリグの美しい桃色の乳房で画面はいっぱいに満たされる。あなたが書いた言葉を借りるならば、彼女も雨の肌を持つ女だ。死んだはずの者たちから立ち昇る生花の匂いのような官能。あるいは熟しすぎた果実のような官能。東洋の湿度が、相容れない者たちを叫ばせるような湿り気、両腕を大きく広げた海が潮の匂いを恋人の肌に孕ませた官能。千人の女の憂いと眠りを一緒にしたみたいな女。デルフィーヌ・セイリグが演じる女にも、あなたが描いた女たちは皆死の力を隠し持っている。余りにも大きくて抱えきれない愛みたいに、その死の芳香が官能を呼び覚ます。あなたは、デルフィーヌ・セイリグは映画の涯からやってくると書いた。彼女は劇中鏡の中を出入りする。カメラの前から消えたと思えば鏡の中に姿を現す。鏡の奥からやってくる。鏡に吸い込まれてゆく、飲み込まれてゆく。書かれようとしている物事、呼び覚まされた記憶が再び身を潜めてしまうように、見つけられようとしているように。その最中も聞こえてくる“声”と、虚構の更に内部に行ってしまう彼女、彼らの姿というずれはますます狂おしい葛藤を連れてくる。
あなたが出会った、死で養われる愛の中心にいた女。あなたは何度も書き直す、連なる鏡のように、記憶や姿を転移させてゆく。本作の後に制作された『ヴェネツィア時代の彼女の名前』(1976)に映し出されるのは、もはや上流社会の名残も無い瓦礫が散乱し煤けてしまったがらんどうの館。かろうじて差し込む白んだ陽光だけが柔い。『インディア・ソング』の音声が廃墟の映像に被せられる。彼…副領事が彼女に愛を告げ、絶叫に至る…カメラは“記憶”の眼差しとなり、終焉の館にて愛する女を探す。ひとつの物語が時を経て、再び同じ場所へ戻ってくること、言葉や音楽が視線と変わる、映画が起こす化学反応。あなたが描いた女は姿を見せずとも、あなたによって“語り直される”世界において死と生の芳香を滅させることは無い。あなたの女たちはそんな転移を、迷っていることも、迷宮をも受け入れる。愛を虚無を叫びを失われた全てを無意識と健在意識の狭間で立ち尽くす瞬間もその肢体いっぱいに受けて立っている。彼女は泣きたくなるくらいに全てなのだ。アンヌ=マリー・ストレッテルは。だから、海へと帰っていったのだ。
(和泉萌香)
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