映画評論 影との逍遥 第十一回「ZOO」和泉萌香

 TOKYO Olympic。東京オリンピック。おそらく誰もが毎日(聞きたくもないのにだ!)耳にしているであろうその言葉、その単語には並んだOが二つ。じめじめと陰鬱な街に掲げられた巨大な広告では、まだ東京オリンピック2020のまま。ぽっかり穴があいた文字面、空洞は不条理な現状と猥褻極まりない権力の横行に怒り、唖然とする者たちの心をせせら笑うかのような冷徹さ、声を無にねじ伏せてしまうかのような、薄気味悪いブラックホールの顔をしている。Oが二つ、虚無が二つ。国、都市がゆっくりと腐敗していく様を定点カメラで観察する者は一体誰だろう? もしかすると、いつしか腐乱の過程そのものに取り憑かれ、終焉のその先――何もかもが終わったあと、存在するかも分からない膨大な虚無に取り憑かれてしまうこともあるかもしれない。ピーター・グリーナウェイ監督作品『ZOO』の双子のように。醜い狂気が最も蔓延すると言っても過言ではないだろう今月は、腐りゆく生物を挑発的に、ちょっぴり歪な美学で観察した本作を取り上げたい。

 冒頭の鮮烈なイメージで誰もが、死が放つ匂いにきらびやかで有毒な、蠱惑的な魅力を植え付けてしまった本作に唖然とし、捕らえられてしまうことだろう。雌の白鳥と激突した自動車にはぐったりと動かなくなった女性が三人、夜に光る瀝青には白い羽根が舞いガラスの破片が散らばり、背後には火花が散っている。奪われた生命のかけらの刹那的なイメージ、マイケル・ナイマンによる好奇を駆り立てる独特な音楽と、剥製が並ぶ部屋で呼応する点滅するライトのシークエンス。妻を同時に失った双子、動物学者のオリバーとオズワルドは動物園の研究所でリンゴから白鳥、シマウマと、延々と生物の腐敗を撮影し見入るようになる。そしてしまいには彼ら自身も肉体に毒を打ち、カタツムリに覆われながら自然に回帰してゆく・・・蠅がたかり、空っぽの眼窩に蟲が蠢き、朽ち果てていく獣たちの死骸へ投げかけられる眼差しは、グロテスクというよりも静謐で、挿入される生きる花片やカタツムリの湿っぽいイメージは非常に官能的だ。ピーター・グリーナウェイ監督は双子の映像作家、ブラザーズ・クエイの存在にインスピレーションを受けて本作を製作したという(監督はクエイ兄弟に出演を依頼するも、残念ながら断られている)。同じく双子の兄弟の物語、デヴィッド・クローネンバーグ監督『戰慄の絆』では双子がふたりでひとりであることを悟り、禍々しい紅の手術室を離れて蒼然の夜が覆う、子宮を思わせる部屋で死んでいくが、本作『ZOO』での双子ははっきりと、生まれた当初は結合双生児だったことが描かれている。並行する腐りゆくものと進化する生命のイメージ、自分たちにとっての均衡を知り、“全て”がそこにある舞台で無へ帰してゆく人間の姿は、『戰慄の絆』と同様に美しく、ある種のカタルシスを残す。「死体を彩る美しい肉は朽ち果て、鉄の足と骨だけが残る」そうして肉体が腐ったあとも、カメラは回り続ける。ウィリアム・バロウズは「死の写真を撮ってこい」「作家は記録する機械だ」と書いたが、自分の死まで記録したいと願うのは、全ての作家の性なのではなかろうか。『ZOO』で描かれる腐敗の記録、ブラザーズ・クエイ『ストリート・オブ・クロコダイル』にみられる艶かしい身体を思わせる廃虚。鉄筋という骨、液晶パネルの皮膚、煩雑な情報が血管を駆け巡る現代の都市もまた、未曾有の感染病と人為的な病によって衰弱した顔を見せている。我々が住む都市の急速な腐敗は、映画のような審美性には些か欠けているが、腐りゆき鉄の骨と嘆きが満たされるであろう、都市という身体へ定点カメラを向け、感傷も捨てて醜悪も何もかも記録することは、言葉や文字を持つ我々が今するべきことのひとつなのかもしれない。


(和泉萌香)

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