映画評論 影との逍遥 第十二回「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」和泉萌香

 「人生にはただ二つのものだけがあればいい。一つは可愛い女の子との恋愛。もう一つはデューク・エリントンの音楽。他のものはなくなってしまえばいい、なぜなら醜いから」


 男二人を乗せて一台の車が走っている。ガタガタ音を立てたゴミ収集車のフロントにはチャーミングな笑みを浮かべる女性のパネルが貼られて、まるで殺風景な地を走る海賊船のようだ。長閑で牧歌的なインストゥルメンタルが流れて、映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』は始まる。

 本作はセルジュ・ゲンズブールの代表曲であり、パートナーであったジェーン・バーキンとのデュエットソング「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」をモチーフに映画化された作品である。ゲンズブールの監督第一作となる作品であり、そして冒頭の文句を言い放った作家でありジャズ・トランペット奏者、ジャズ評論家、ゲンズブールが多大な影響を受けたボリス・ヴィアンに捧げた映画だ。ゴミ収集で生活をしている男性二人組、クラスキーとパドヴァンは仕事終わりに立ち寄ったバーでボーイッシュな女の子、ジョニーと出会う。クラスキーはゲイだがジョニーと惹かれ合い、三人の歪で危うい三角関係が生まれていく。淡いブルーを背景に、口付け合う直前の甘やかな緊張を共有するジェーン・バーキン演じるジョニーと、アンディ・ウォーホルに見出された美男、ジョー・ダレッサンドロが目立つ、リバイバル上映ポスターの印象からは遠く、映画は醜悪な符号で溢れている。ジョニーが働く店の主人のげっぷや屁の音は顔をしかめさせ、裸体で横たわる恋人たちの肌には蠅が止まる。カフェバーのビールは見るからにぬるく不味そうで、廃棄物の上でクラスキーとパドヴァンは転がって睦みあう。冒頭ではカラスが収集車のフロントグラスに落下し、血塗れの死骸が転がる。彼らの逢瀬は、劇中の台詞にもある通り、ステュクスのほとりで行われる遊戯なのである。不快な生理音や蠅の羽音が聞こえる中、ゲンズブールが紡ぐ甘美なメロディが何度も何度も繰り返され、ひび割れた地獄の裂け目で優しくメリーゴーランドが回るかのごとく(ジョニーとクラスキーがパーティーで踊るシークエンスではカメラがぐるぐると二人を追いかけ、恋に溺れる者たちの蕩けそうな恍惚を表現している)たかぶる恋の喜びを宣言する。クラスキーの“パートナー”、パドヴァンが握りしめる、まるで死体袋を彷彿とさせる不穏なビニール袋に濁った水が流れる河、ジョニーとクラスキーが観やる真下のゴミ捨て場。そう、全員フランス語を喋るもののポーランド人のクラスキー、イタリア人のパドヴァン、イギリス出身のジェーン・バーキン/ジョニーが集うのはアメリカの片田舎を思わせる乾いた土地で、無国籍で無時間的だが、汚臭が横たわる土壌だ。それは映画館を出た後に再確認される、この世界のように。地獄のほとりで咲く、接吻から絶頂までの距離に生じる恍惚の時間は短いものだ。なぜなら、汚れてしまうから。醜い世界に溶けて、一緒になってしまうから。美しいものは、時に現実の世界で養いきれない。

 「人生で必要なものはただ二つだけ。美しい恋愛と音楽」ボリス・ヴィアンは「うたかたの日々(日々の泡)」でそう書いた。この文句が、かつての若者も現代の若者にも支持されるのには様々な理由があるだろう、退廃趣味とめいうって責任を放棄できるから。醜悪な現実に目を背けるカッコイイ理由づけができるから…。

 だが、生臭いゴミが散乱する世界で発見され、行われようとする、“愛”と名付けられた事件を超えて必要なものは、他にあるのだろうか。

 気絶が降りかかるような一瞬、現実と同化してしまう前の恋以外は醜いと言い切ってしまう挑発。そう信じて身を投じることの刹那的な灼熱が『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』にはあり、時を超えて、醜悪が蔓延り、身を削るような愛に懐疑的な姿勢がある今に、愛のメロディと共に輝き、挑発する。

 愛している。愛していない。

 矛盾するふたつの文句は、偽悪者の感傷を孕みながら、今日も混沌の世界で物語のための場所を探している。


(和泉萌香)

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