君のモデルたちにこう言うのは馬鹿げたことではない――「あなたの在るがままの姿に、あなたを新しく創造してあげましょう」と(ロベール・ブレッソン著「シネマトグラフ覚書」より)。
手のひらが、指先が。モノクロフィルムの中に現れる銀色の指が、カラー映像の中で現れる白い指は魚の腹を連想させるくらいに冷たく、生きる人間のものなのか分からないほどだ。無表情、仏頂面、役者を「モデル」として扱うブレッソン監督作品の人物の顔は、そのストーリーも理由だろうが皆「無表情」とは言えど眺めれば眺めるほど哀切で寂しいが、艶かしい。苦悩し、葛藤する人々へ投げかけるカメラの眼差しというのは背徳めいた官能がある。フランソワ・トリュフォーはブレッソンの『たぶん悪魔が』をまるでトランプカードのようにほっそりと美しい男と女が次々に登場する点から、その重苦しいテーマを横に置き「官能的な映画だ」と述べたそうだが、筆者もまた『やさしい女』『白夜』などのブレッソン監督の映画にはガラスケースに閉じ込められ、その舞台の為に生命を持ち輝き、上演が終われば微かな呼吸を持つ存在に戻る人形を愛でるような、冷酷で孤独な悦びを感じる。男であれ女であれ生身の人間から一切の血を抜き取り操り人形と化けさせて動かす、美を封じ込めておきたいという禁忌的な願いが映された「モデル」たちの顔だが、『やさしい女』で若き妻を演じるドミニク・サンダの顔は夫からも、我々鑑賞者も決して近づけやしない「距離」を浮かべている。誰も所有することのできない女の顔、ここではない場所、映画内の世界での居場所が養うことのできない威力を持つ女の顔、映画の中の酸素に溶け込んでしまう、透き通った曖昧さでできた顔と肉体を持ったひとである。 窓が大きく開け放たれ、椅子が揺れ、白いストールが宙を舞う瞬間の全てが凍りつくような、映画はこの数秒のために用意されたのだと納得せしめる戦慄のシークエンス。場面はあっという間に変わり、紛い物の血の横に倒れる女が映し出される。浮かび上がるストールは海で舞うリュウグウノツカイを連想させるくらいに印象的だ。残された夫は彼女との出会いから軋轢が生まれ妻が自殺に至るまでを家政婦に聞かせる(ドストエフスキーの原作短編では夫によるモノローグが延々と続く形になっている)。モスグリーンのコートに身を包み、くすんだブロンドの髪を垂らして金を受け取るドミニク・サンダは、獣臭い官能を携えたカトリーヌ・ドヌーヴの魅力とも、ガラスの破片が似合うマリアンヌ・フェイスフルの退廃的な魅力とも異なる、操り主を凌駕、驚愕させる人形、俗世間の中で自分の肉体という聖域に閉じこもる術を知る「恐るべき子供」とでも言うべき輝きを備えている。サンダが演じる貧しく若い女は質屋の男に生活や金銭面などなど押し切られる形で結婚するが、女は多めに見積もって客に金を渡す描写もあるようにそういったものにはさほど価値を置いておらず、本や絵画、音楽、演劇といった芸術や「動かぬ死せるものたち」に愛着を示している。堅実な生活という言葉の下にじわじわと首を締める抑圧を滲ませる男と、芸術への愛という翼を持った女が共に歩む日常など、難しいに決まっている(スプーンの音だけが響き渡るスープを飲むシーンの、なんと気まずく息苦しく恐ろしいこと!)。映画では執拗に扉が開閉するシーンが差し込まれ閉塞感を増長させるが、彼女が身を投げる(た)シーンのみ、大きく窓が開け放たれ、彼女の「生活」からの解放を示す。宙に舞う白いストールは、持ち主を失った翼の揺蕩なのだ。 人を愛するとはどういうことか? 幸せとは何か?
(アニエス・ヴァルダの映画『幸福』でも花が印象的に使われているが、本作でサンダは花束を無造作に捨ててみせる。彼女は鮮度が高いだけの「幸せ」の欺瞞を知っているのだ) 愛と生活は共存し得るのか? 我々は恋、愛という謎を決して解明することはできないだろう。愛がもたらす美しさ、悲劇を解明することはできないだろう。愛、穏やかな愛、やさしい愛が存在すると明確にすることだって永遠にできないだろう。もしくは解明してしまったら、世界はこれまでよりもたやすく、つまらないものになってしまうかもしれない。彼女が身を投げた明確な理由や心情は想像しつつ厳しくは探らずに、愛や生活の残酷さや人間の心の震えを思いながらそうっとしておこう…彼女は我々が追いつくことのできない問題への解像度が高かった、素晴らしく「やさしい女」なのだから。
(和泉萌香)
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