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菊井崇史

VOODOO NEUROSURGEONS(review)菊井崇史

更新日:2020年9月14日



 VOODOO NEUROSURGEONSが始動したという報せをうけ、二〇一八年十一月六日の下北沢SHELTERでまのあたりにしたライヴは、彼らの直の演奏にふれたはじめての機会だったが、そこでVOODOO NEUROSURGEONSが鳴らし、響いた全てのSOUNDがぼくには、かつてかわされた約束をはたすMUSICのように、そして、今ここにつどう新たな約束のように聴こえていた。

 この日、吉野東人(Vocal/Guitar/Bass)、大角暁源(Vocal/Bass/Guitar)、山田JETギャラガー(Drums)の三人により演奏された六曲、Qualia、Zephyr、Sunset Velocity、Baby Shiny、The Dawn、Youth Ⅱを聴くだけで、VOODOO NEUROSURGEONSというバンドが、六〇年、七〇年代のロック、サイケ、パンク、八〇年代のシューゲイザー、ポストパンク、ノイズ、九〇年代のグランジ、〇〇年代のポストロック等、幾多のリファレンスをバンドの神経に繋ぎ、血肉化していることが伝わる。ただし、彼らは、ロックンロールの系譜、歴史のなかでフォーミュラ化してきたスタイルをスタイルとして懐古的に踏襲しているのでは決してない。そんなやり方では、すでに保障され価値付けされたロックンロールの神話の体系に、今を生きる心身が、その現在がスポイルされるだけだ。彼らはそんなへまはしていない。あくまでも現在を生きるための現在のSOUNDを必要とし、希求している。だからこそ、VOODOO NEUROSURGEONSは、ロックンロールにおいて、その実践の都度に生じてきたSOUNDの確かな形態から、彼らが聴いてきたMUSICの歴史の通時的な戦意をつかみだし、その戦意を現在という地平の共時的な切先として突き立てようとする意志を覚えさせるのだ。これは、端的な精神論ではなく、実践論であり、実践のレヴェルにおける奏法の問題であり、MUSICを生きる方位を要請する理念の問題だ。

 フィードバックの轟音からディストーションギターのアルペジオ、ラウドでソリッドなリフ、うねりドライヴするベース、烈しく叩きこまれつづくドラム、地声をディストーションにまで喉を擦過し放たれるヴォーカル、この日のライヴを聴いたかぎり、VOODOO NEUROSURGEONSは、九〇年代のグランジの実践をもっとも色濃くうけついでいると感じたが、ぼくには彼らのその選択が、実践の理性が、幾つもの意味においてとてもただしいものだとおもえた。VOODOO NEUROSURGEONSは、自身のバンドをAlternative Sadcoreと自認している。Alternative Sadcoreをぼくは、ジャンル的な区分けであるよりも彼らのひとつの意志表明として受けとっている。誰の目にも、誰の耳にも、ライヴに立つ彼らのすがたは、彼らの鳴らすSOUNDは、強烈な悲しみを、その悲しみに比する怒りを、そしてそれでも生きることにかかえる切なさを、この現在に響くべきロックンロールの戦意として体現していたからだ。


 VOODOO NEUROSURGEONSのメンバー吉野東人とはじめて顔をあわせたのは、ライヴの幾ヶ月以前、二〇一八年一月で、この出会いの夜すでに、吉野東人が鳴らすMUSICは、SOUNDは、必ずぼくの鼓動につよく響くと信じていた。予覚ではなく、確かさとして。『甕星』の主催・編集主幹の平井倫行に連れられた東京町田で、三時間程だったろうか、声をかわし、その話題の多くはMUSICだった。ぼくらは互いの身心のありかを確かめるように、いくつものバンドや曲の名をあげ、MUSICについて話していた。吉野がMUSICIANであることは、平井からきいていたけれど、それだけが理由ではなかった。いつも、あいさつがわりだったのだ。十代の頃から、誰かと出会えば、それぞれにどのようなMUSICを聴いてきたのか、今聴いているのか、MUSICからなにを受けとっているのかを伝えあい、それが、相手をしるひとつのやり方だと信じていた。MUSICはその意味で最速だった。同じものを聴いていればいいというわけではなくて、MUSICの話に場があたたまり、そして、その声から聴こえてくる生きることへのおもいの輪郭が確かにあったのだ。MUSICをとおして、互いのありかたをうわすべりせずに、その鼓動を伝えあえる。なにを聴いているのか、それは、いかに生きているのかと密に繋がっている気がしていた。

 この日もそうだった。出会って僅かな時間だったが、心にささったことは、それらのMUSICへのおもいを告げる吉野自身の姿勢だった。彼がどのようなMUSICをこのみ、そこからなにを受けとってきたのかを告げる表情や仕草からは、その幾多のMUSICへのあるべき批評が語られていたと同時に、吉野自身がひとりのMUSICIANとしていかなるSOUNDを鳴らしたいと願っているのか、鳴らすべきだと意志しているのかを如実に訴えていた。吉野は決してロックを自身の安息の域とはしていなかった。逆だ。彼のかかえる意志とMUSICの双方が、刃を突き立てあっていて、その切先は互いの心臓の膚にふれあい、絶えない生傷のように、MUSICと生きることの連結の証を刻み、「ナメタマネシタラオレハ終リダゼ」と律しあっている、そんな緊迫が彼の所作には宿っていた。瞳が破裂しそうだった。だからだった、ぼくには、しずかで獰猛な彼の瞳から、眼光に似たSOUNDが響いて見えていた。彼のまなざしに、MUSICが聴こえた気がしたのだ。なにを鳴らすべきか、それは、いかに生きるべきなのかと密に繋がっていた。


 それから幾ヶ月、ライヴ当日、吉野東人にとって下北沢SHELTERは、自身はじめておとずれたライヴハウスだったのだと、彼はぼくに告げた。はじまりの場所で再びはじまりを刻むこと、それはノスタルジーではなく決意だった。このライヴにかける決意と、この始動の以後、VOODOO NEUROSURGEONSというバンドを生きぬく決意とを、ぼくは吉野の声から聴きとっていた。

 VOODOO NEUROSURGEONSのライヴは、吉野東人、大角暁源、山田JETギャラガーの三人がつどうことでひらかれる光景のなかから、ぼくたちが生きること、その実景に臨む体験に似ていた。大角暁源が喉を裂き放つヴォーカルは、歌声を響かせることよりも、今を生きてあるものが地声でなにかを訴えるために軋む、その地声の臨界でだけディストーションするシャウトだった。山田JETギャラガーがたたくリズムは、そのドラムを地上に見立て、ぼくたちが生きる地平を打ち砕くかのような希求を響かせていた。吉野東人が轟音に響かせるリフは、MUSICを生きること以外に生き方のないものが、その瞳がみつめてきた光景に刃向かう挑発のエッジを刻んだ。鼓動のパルスが巡った。そこには、悲しみ、怒り、絶望を見てしまったもののつめたい鋭さ、いたみ、やさしみがあり、VOODOO NEUROSURGEONSは、それらの情調を自己顕示に噴出させるのではなく、抵抗すべきものへの抵抗、闘うべきものへの戦意として鳴らしていた。響かせていた。はじまったのだ。

 彼らのSOUNDに宿る情調は、現在を生きる彼らのまなざしにうつるそれとひとしく、それがSadcoreであるがゆえに、そのいたみを耐えなければならない。もしも、そこから目をそむけてしまえば、SOUNDと意志の心身に突きつけられた刃が、即座に互いをつらぬくはずだ。「ナメタマネシタラオレハ終リダゼ」と声がする。それでも、彼らはSadcoreを心臓の近くにかかえ、突っぱしるだろう。それをつよくいだけばいだくほど、VOODOO NEUROSURGEONSがSOUNDを駆けぬける速度はましてゆくだろう。ほとばしるMUSICが、それを聴く誰かの勇気となるだろう。そして、ぼくたちは、今を生きるこの場所にこそ鳴り響く、SOUND、MUSICの渦中で幾度も約束をかわすのだ。

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