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『土狭日記』第四回 「地元」の輪郭④ ―綱島― 鈴木基弘

 橋を渡るときには、いつも不思議な感覚を抱く。


 それは「橋」というものが、広く境界にかかわるものであることと関係しているのだろう。

 かつて川は交通途絶の最たるものであり、ひとつの地域・社会の連続性が絶たれるところとして存在してきた。今日でも川を県境・市境としている例は少なくない。あるいは現世にとどまらず、三途の川の例にもあるように、古より川は「あの世」と「この世」を隔てる境界として人々の想像力のうちにとらえられてもきた。

 一方でその上に架けられる「橋」はどうか。語源には諸説あるが、たとえばそこに「端」の字があてられる場合には、橋は「物事の始まるところと、その尽きるところ、すなわち始点と終点」を同時に意味するものと考えられてきたようだ(川田忠樹『橋と日本文化』)。

 私自身が「橋」と聞いて思い浮かべるのは、横浜市内を流れる鶴見川に架けられた大綱橋という橋である。20代から30代へと至る約3年間を、私はこの橋のたもとにある綱島という街で過ごした。縁をことさら信じる質ではないが、今でもよく思い出すこの街に暮らすようになったのには、それでも何か導きのようなものがあったような気もしている。


鶴見川と大綱橋。晴れた日の午後に散歩するのにうってつけの場所。


 不思議なことに、さしたる特徴もないようにみえたこの街には、実際に訪れる以前から何かひっかかるものを感じていた。渋谷と横浜をつなぐ東横線は、道中でふたつの大きな川を渡る。ひとつは東京と神奈川の県境を流れる多摩川。多摩川を挟んだ一方には東京屈指の住宅地・田園調布が広がり、もう一方にはここ十数年で急増した武蔵小杉のタワーマンション群がそびえる。実家のある小田原から都内の下宿先へと戻る際、この川を渡ると自然と身が軽くなる気がした。それは人生にかかわる決断を、都内での慌ただしい(なかばフリだったが)生活を理由に先延ばししていたことともかかわっていた。今にすれば単なるモラトリアムに過ぎなかったのだが、私にとって多摩川の先に広がる「東京」は、匿名的にはあれない「地元」の重力からひと時自由になるための私的な聖域のようなものだったのではないか。多摩川は「地元」の重力が尽きる終点であり、別の生活がはじまる始点でもあった。

 ただ、私にとって特別だったのは、もうひとつの川―多摩川に比べれば幾分か地味な鶴見川の方だった。沿線に連なる住宅地を横目に大倉山を抜け、鶴見川へと至ると束の間視界が開ける。河川敷にはラブホテル(今日なんと呼ぶのかよくわからない)が並び、大綱橋を渡り駅が近づくにつれ、雑居ビルやパチンコ店などがごちゃごちゃと混在する街並みが目に入ってくる。閑静な住宅地がイメージされがちな東横線からすればどこか雑多な空気が漂うそのあたりを通過するたび、胸がざわついた。それは特別な風景といえるほどに特徴をもったものではなかったけれど、そこに人が居る、人の生活が在ることを強く意識させるものだったように思える。だから雑多な空気とは、人が日々を営むうえで醸す生活のにおいと言い換えることができるのかもしれない。そしてそれは当時の私が無意識に遠ざけたかったものであり、地元に抱く「重力」と同質の何かだったようにも思う。



 綱島を初めて訪ねたのは、同地で暮らすようになる2年ほど前、20代半ばを過ぎた頃だった。思えば当時の生活は荒れていた。地元に戻ること、浴場業を営む父の後を継ぐこと、そのことが常に胸のうちにありながら、それでも何か別の可能性もありうるのではないかとまったく違う仕事に就き、かつ学生気分を拭えないまま未練がましくも仕事の傍ら大学院に通ってみるなど、何もかもが中途半端だった。いずれにも腰が据わらないがゆえ、身になるものもあまり身にならず、鬱々とした気分で日々を過ごしていたことを思い出す。

 そうした日々の中で、ただひとつ深呼吸できたのは奇しくも公衆浴場(銭湯)だった。見ず知らずの人々に交じり、ただただ湯につかる。生業になった今でも浴場が好きなのは、誰しも(裸で)同じ場を共有していながらも、互いに干渉しあうことなく、それでいてゆるやかな連帯を感じさせてくれるところだ。人はたしかにそこに居る。だが強いプレゼンスを発することなく、むしろ輪郭のぼやけた気配のようなものとしてそこに存在しあっている。何者かであろうとすることから解放されるそのひと時だけ、何も考えずにいられた。遠ざけているはずのものに救われる、というのもおかしな話だけれど。

 ちょうどその頃、飲み友達で学生時代の後輩であったY君から「おもしろい浴場を見つけたので行ってみませんか」という誘いを受けた。聞けば、昭和名残の古い浴場で、湯は真っ黒なモール泉。おまけに持ち込み自由な宴会場まで併設されているという。勢い胸は高鳴ったが、それが綱島にあると聞かされて一瞬ためらった。とはいえ、それは行かずにおくほどの理由にもならず、週末に綱島の駅前で待ち合わせることになったのだった。

 黄色の外壁に古めかしい書体で掲げられた「綱島ラジウム温泉 東京園」の文字。一見すると派手ともとれるその外観はただ、経年による褪せと相まってか、不思議と周囲から浮かずに無理なくおさまっていた。900円の入館料(たしか1時間以内の入浴ならば半額だった)を支払いなかに入れば、駅からわずか30秒の距離にあるとは思えない広々とした庭が視界に入ってくる。手入れがされているとも、されていないともとれる飾り気のない庭に沿い、常連と思しき年配の常連たちが互いに持ち寄った総菜を広げて早めの昼食を楽しんでいる。


東京園の2階から中庭をのぞむ。ここだけ時間が止まっているようだった。


 ささやかな宴を横目にさらに奥へと歩みを進めると浴場の入り口へと至る。浴場内は一風変わっている。色とりどりのタイルで構成された幾何学模様が描かれた壁面はレトロなのか、はたまた前衛的といえるのか。中央の円形型の大きな浴槽は、ヌルっとした肌触りの墨汁のような黒湯でみたされていた。ひとたびつかれば数センチ下の手先も見えない。そういえば谷崎潤一郎に、湯船の底に女の死体が沈んでいるという妄想にかられた小説があったなと、なんだか妙なことを考えた記憶がある。もちろんそんなものがあるはずもない。

 着替えをすまして浴場をでると、どこか懐かしい醤油と味醂の匂いが漂う。浴場を出てすぐ、売店のショーケースにはスナック菓子や乾き物のほか、紙皿にのせられた煮魚やきんぴら、焼きそばなど、総菜の数々が。口にする前からどんな味かおおよそ想像つくものばかりだけれど、心が躍った。Y君と適当に総菜をみつくろい、瓶ビールを片手に大広間に踏み入ると、すっかりデキあがった酔客が方々で宴会をはじめている。遠慮しながら隅に腰を下ろし、買ったばかりの総菜をつつく。すると突然大音量で演歌のイントロが流れ出した。広間中央に目をやればそこは広々としたステージで、禿頭の小柄な老人が隅でマイクを握りしめている。カラオケつきの宴会場が併設された浴場がかつてはあちこちにあったことは知っていたし、実際に行ったこともあったのだけれど、驚いたのは曲がはじまるや否や、あちらこちらからステージに人が集まり社交ダンスをはじめたことだった。演歌に社交ダンスの組み合わせも不可思議だが、よくよく目をこらせばこのために用意したと思しき衣裳を着た女性の姿も。二人して呆気にとられているうちに曲は終盤を迎え、踊り手たちは再び各々の宴席へと戻っていく。「なんだったんですかね……」とつぶやくY君の傍らで、私自身はこの光景をどこかで目にしたことがあったような気がしていた。いや、「目にした」というのとは少し違うかもしれない。


宴会場。なぜだか宇宙船の艦内を彷彿させる。

 

 既視感のわけをぼんやり考えているうちに思いあたったのは、時折聞かされていた、父の切り盛りする浴場のかつての姿だった(だから厳密には既視とはいえない)。先代から父が引き継いだそのころには受付に人さえおらず、ぶらさげられた回収箱に自己申告で利用料を収めるほど簡素な施設だったという。葦簀張りの浴場のほかには、やはり休憩処としてカラオケ付きの宴会場が設けられていたそうだ。朝早くから営業していたこともあり、俱利伽羅紋を背負った人々や夜勤を終えたばかりの作業員が多く、酔っぱらっての喧嘩もなくはなかったが、それでもそこには暗黙の秩序があり、場を共有しながらも各々に干渉しあうことなく寛ぐ姿があったという。「あのアナーキーな世界は、それはそれで心地よく、おもしろかった」と父はよく話してくれた。そういえば、温泉好きで知られる独文学者・種村季弘氏のエッセイに、施設の当時の姿を好意的に伝える一文を目にしたことがある。そのころ広がっていた光景はおそらくこんな感じ(さすがに社交ダンスはないにせよ)だったのではないだろうかと、居心地のよさと懐かしさに似た感覚が胸のうちに広がっていった。



 綱島とのかかわりに変化があったのは20代の終わり、結婚を決め、新たに住まいを探さねばならなくなったことがきっかけだった。

 候補はいくつかあった。手狭であれば都内に暮らし続けることもできなくはなかったし、隣接する神奈川も西へ進めば安価に住まいを求めることもできたが、それでもまっさきに頭に浮かんだのはやはり綱島だった。理由にはもちろん東京園の存在があった。下宿先の最寄り駅から綱島まではほぼ一本、時間にして30分にもみたない距離だったが、それでも週に2~3度、わざわざ川(多摩川)を渡って湯浴みにやってくる若造が珍しかったのか、気づけば顔見知りもでき、宴会場で酒や肴を振る舞われる機会も増えた。ほろ酔いの常連がその後に流れる場所は大体決まっていて、そのときに連れて行ってもらった立ち飲み屋には、綱島に暮らすようになってからも足しげく通うことになる(おおよそ想像しうるすべての人間ドラマが詰まったような酒場で、思い返すとかなり強烈な場所だった)。


 「ここを地元にしたいと思ったんです」


 綱島への転居を考えていることを、顔見知りの常連に伝える際に、そんな一言がふと口をもれたことがあった。もちろん、綱島に永住するつもりなどなかったし、数年の後に「地元」に戻らなければならなくなるであろうことも理解はしていた。それでもなお、人生のうちのほんの数年を過ごすにすぎない土地を「地元にしたい」と口にしたそのとき、自身のなかで何かがかわりはじめている感触があった。浴場という共同性にみちた空間に寄せる人々の感情、その場に生起する平穏な時間。そうした場所や時間にかかわる生業に、かすかな希望を抱きはじめていた。綱島を「地元にしたい」と口にしたとき、その先に重ね見ていたのは、鶴見川にかかる大綱橋のはるか先の、本当の「地元」ではなかったか。



 そのおもいに、より明確な輪郭を与えたのは、綱島に移ってから1年も経たないうちに届いた「東京園の無期限休業」、事実上の閉業の報せだった。

 鉄道の延線にともなう再開発により、東京園が取り壊されるという噂はそれ以前からあった。ただ、何度も浮上しては消えを繰り返していたらしいことから、早晩おこる話ではないとどこかで高を括っていたため、その報せはまさに青天の霹靂だった。

 綱島には「東京の奥座敷」と称され、温泉街として栄えた時代がある。最盛期には300名近い芸者が街を闊歩していたという記録から往時の賑わいが伺える。しかし何度かの浮き沈みを経験し、とりわけ新幹線が開通して以降、箱根・熱海(奇しくそれは私の「地元」である)へのアクセスが簡便になるにつれ、その地位は徐々に失われていった。往時の唯一の名残、東京園の閉業は綱島の温泉地としての歴史が終焉することをも意味していた。

 東京園閉業の報せが広まってからの数か月、週末は毎度ちょっとしたお祭り騒ぎだった。安価に宴会場を貸し切れることから、閉業を偲び種々様々なイベントが企画され、多くの人々が集った。ただ、東京園に寄せるおもいの強さを感じさせられる一方で、正直なところどこか居住まいのわるさを感じていたことも思い出す。少なくとも私にとって東京園はけっしてハレの場ではなかった。飾り気のない庭を眺めながら持ち寄った総菜を広げ歓談する常連たち、顔見知りが歌う演歌に乗じてなされる奇妙な社交ダンス。そうした人々の日常―ケの時間に寄り添う場所としてあり続けたのが東京園だと思えたからだ。2015年5月19日、幕をおろすその日、浴場内にみちていたあの穏やかな時間こそ、東京園の本当の姿ではなかったかと今でも思う。


閉業する数日前のステージ。「祭」の合間の穏やかなひと時。


 閉業の決断をとがめることなど、もちろん誰にもできない。時代の盛衰のなかで土地が姿をかえていくことも無理からぬことだとも思える。それでも、ある場所がかわらずそこにあり続けるには、その場をまもろうとする強い意志が必要であること。そして父が生涯を賭け、営み、まもりつづけたその場所が、誰かにとり、私にとっての「東京園」であるならば。静かに背中を押された気がした。



 とはいえ、いささか格好つけて記してはきたものの、その後の顛末はといえば、あまりに無様だったと言わざるを得ない。仕事は相変わらずの低空飛行を続け、職場や同僚には迷惑をかけた。なかばノイローゼになりながらその後に2年もの時間を要した修論は、お世辞にも満足のいくものにはならなかった(余談ながら、無理やりでっちあげた論文は偶然にも、晩年を綱島で過ごしたとある写真家についてのものだった)。

 ただそれでも、行先を定められないまま喘ぐしかなかった日々を思い返すとき、背中を押され、わずかながらも深く息をすることができるようになったのには、東京園という場所との出会い、綱島という街で過ごした束の間の日々が確かにかかわっている。


夢の跡。8年が過ぎた今もなお工事は続いている。

 

 「綱島」という地名の由来には、鶴見川と早渕川というふたつの川に挟まれた土地、つまり「中州」がツナシマと呼ばれていたことから、次第に周辺地域をも指すようになったという説がある。ふたつの川、ふたつの境界。我田引水的に領域を拡大し、冒頭で述べた多摩川と鶴見川に挟まれた一帯を広大な「中州」とみなしみてみる。そのようにして考えてみれば、迷走する都内での生活を清算し、帰郷するまでのわずかな時間を過ごすのには、「東京」と「地元」というふたつの重力に挟まれながらも、ふたつの川(境界)により隔たれた余白、中洲のような場所こそ、あのころの自分には相応しかったのだろう。

 家庭をもつこと、人生の行き先を定めること、ひとつの地に根をおろすこと。月並みにも人生の過程をそんな通過儀礼の連続として考えてみるのならば、当時の私自身もまた、ある段階とある段階の敷居に立つ、境界的で、曖昧な状態(リミナリティ)にあったのではないかとも思える。「橋」を渡り、「地元」に戻った今の私が、はたして成熟した状態としてあれているのかは未だ、はかりがたいのだけれども。


                                      (続)

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