本誌とも所縁のある国文学者・松田修に、『日本人の旅意識』という小論がある。松田はこの小論のなかで、古代から近世に至る日本人に通底する旅意識として、いくつかの特徴的な要素を抽出している。ざっと取り上げると、往還性(故郷回帰)、流浪の無目的性、紀行の希薄さ、中央(ミヤコ)に対する地方(ヒナ)の従属の構造などである。いずれも多様な論点をはらんでいて興味深いのだが、松田は論を以下のようにはじめている。


「古代日本人のテリトリーは、かなり狭いものであった。たかだか半日、あるいは一日の行程で、すでに他郷であり、他国であった。日常の空間を離れ、非日常の空間に身を置く営為を、いつから旅と称したのか、私は知らない。

(中略)テリトリーのなれから、一歩ふみ出したとき、人は旅人となる。」


 自身のテリトリーの外部へと出ることを「旅」の条件とする松田の指摘は、別に珍しいものではない。もちろん、松田の指摘はこれだけに留まるものではない。「旅」とはしばしば「空間の秩序化・定着化に対して穿たれた人間の意志」と目されるが、我が国の伝統においてそのような主体的・能動的な旅のあり方は希薄であり、なおかつ多くの場合、旅人たる「中央人」はミヤコの優位‐ヒナの従属という空間の秩序を崩そうとはしなかったことを指摘する。こうした「中央/地方」の秩序、あるいは中央から地方を一方向的に眼差す視線の構造は、近いところではたとえば1970年代に国鉄(当時)の「ディスカバー・ジャパン」を強く批判した写真家・中平卓馬など、我が国においても何度となく批判されてきた根の深い問題系であると思われる。ただ、私が気にかかったのはその点ではなく、古代日本人のテリトリーが、半日ないし一日の行程で他郷・他国に至ってしまうほどに、「かなり狭い」ものであったという指摘の方だ。

 松田が指摘する古代日本人のテリトリーとは、小論全体の文脈に沿えば、「未知(地方・非日常)」に対する「既知(中央・日常)」の空間のことであり、旅とは「本源的な意味においては、既知・未知二つの空間のスタティックを破る機能」であるはずが、我が国の旅の伝統においては「既知の空間」から「未知の空間」を眼差すという秩序・構造が終始保持されていると松田は指摘する。松田のいうテリトリーが「既知(中央・日常)」の空間のことだとするならば、当時の日本人、正確には「中央人」にとっての日常の圏域とは、その境を越えるのに半日ないしは一日を要するほどに広い(・・)ものだったのかと、私は驚いてしまう。



 かつての「中央(ミヤコ)」を、現代の「東京」に置き換えてみるとどうだろうか。

 もちろん、両者を単純に同一視することなどできない。松田のいう「中央人」とは氏曰く「典型的には貴種」に属する人々であり、ミヤコに住まわっていた市井の人々をも含み得る概念なのかどうかは定かではなく、また現代の「中央人」とは誰なのかという疑問も残る。そもそも氏のいうテリトリーの狭さとは、ミヤコの物理的領土への指摘なのか、「中央人」の心理的領域を指しているのか、はたまたそのどちらをも含み得るものなのか……。ただ、ここでは氏の小論を学術的に考究したいわけではない(それは手に余る)ので、そこから派生する形で、大まかに現代の東京に暮らす人々にとっての、私的な心理的領域について考えてみたい。ただし、ここでも「東京に暮らす人々」などと一律に括れるわけもないので、以下、あくまでも私の個人的な経験に即した範囲での雑感であることをあらかじめお断りしておく。



 東京に暮らしていると、日常的に東京全体を意識する機会は少ない。稀に意識することがあるとすれば、旅先でどこから来たのか尋ねられた際や、地方と対比的に東京について話したり考えたりせざるを得ないときぐらいではないだろうか。東西、市区、鉄道沿線、駅、街区、通りなどなど、個人や文脈に応じて分割の単位は異なるが、多くの場合、東京はそこに暮らす個人の中で細分化されている。人々の帰属意識もまた、そのように分割されたいずれかの単位に属しているように思われるのだが、面白く感じられたのは、ある特定の場所への帰属意識は、その地に住まうに至る個々人のさまざまな動機に裏打ちされつつも、時に他者からの視線を多分に内面化しているように思われる点だ。


 当時は足を運ぶことの少なかった「恵比寿ガーデンプレイス」からの眺め

   


 私自身は東京に暮らした9年間を、恵比寿という街で過ごした。恵比寿を選んだ理由は単純で、通学していた大学のキャンパスに近かったこと、また親類の持ち家に安く住まわせてもらうことができたからだ。アクセスのよさに加えて、小洒落た飲食店の多さからか、いわゆる「住みたい街ランキング」の上位にあがる人気のエリアである。地元を離れての初めての生活ということもあり、暮らし始めて数年間は刺激的な生活を送れていたと思う。一人で酒を飲みに行くことを覚えたのもこの頃のことだ。

 新たな生活、恵比寿という街にも徐々に慣れはじめたころ、この街に暮らす人々・集う人々にある種の類型がみられることに気づきはじめた。いや、正しくは、その街に向ける人々の視線が一定のイメージにもとづいていることを知った。こう記すとなんだか大げさだが、たとえば居住エリアを尋ねられた際に「恵比寿」と答えると、ほぼ例外なく「洒落ているね」と返される。たしかに、洒落たもの、華やかなものへの憧れや愛着がないわけではなかったが、そのことを条件に住む場所を選択したわけではなかったので、毎度戸惑いを覚えた。ただ、周囲を見渡せばそうした趣味嗜好をもつ人々が多いことも確かで、自分自身、近所を散歩する際にもあまりラフな格好で出歩くことには多少の憚りがあったのだから、そのことにまるで気づかなかったわけではなかった(今にして思えばあまりに自意識過剰で恥ずかしくなるのだが……)。自分自身も、街に対して抱かれるイメージ、向けられる視線を少なからず内面化し、見合うように振舞っていたのだと思う。

 そうした自分の振る舞いに気がつくと、恵比寿での生活がひどく窮屈なものに思えてきた。そもそも学生・新社会人の身分では、物価相場の面でもかなり無理もあった。

 ちょうどその頃のこと、身体の調子を崩したことをきっかけに近所の銭湯に通いはじめたのだが(当時は恵比寿の街中にも銭湯があったのだ)、さらに調べてみると下宿先から自転車で10分強程の距離のところに源泉かけ流しの温泉銭湯があることがわかった。夏の夕暮れ時、さっそく自転車をこいで訪ねてみた。銭湯そのものも噂にたがわず素晴らしかったのだが、それ以上に心動かされたのは、長大なアーケード商店街と昭和名残の駅前飲食街をシンボルとした街の雰囲気そのものだった。品川区の武蔵小山という街である。

 武蔵小山もまた生活のしやすさから居住エリアとして人気があり、家賃相場からするとそう形容してよいのかはわからないが、ほどよく地に足のついた庶民的な雰囲気をまとった街だ。その日、銭湯あがりに駅前飲食街の立ち飲み屋で過ごしたひと時の心地よさは、今でも忘れない。誰かの視線を意識することなく、ラフに、一人で寛ぐ時間。懐の心配をする必要もない。街の雰囲気はもちろんのこと、ところかわれば人の心境もまたここまで違ってくるものなのだな、としみじみと思った。


「りゅえる」と呼ばれた昭和名残の駅前飲食街も整備され、今では見る影もない。  



 先に述べてきたことは要約すれば、街々によって雰囲気は異なり、その土地ごとで訪ねる人の心境もかわってくる、ということに過ぎないのだから、何も東京に限った話ではないだろう。わずかながら特徴的だと思えるのは、街々の雰囲気は、歴史や経済といったある程度自明的な要素にのみ依拠しているわけではなく、そこに住まう人々・集う人々の嗜好/志向に応じて醸成されるイメージ、そのイメージを内面化した人々の振る舞いによっても形づくられているということぐらいだろうか(この指摘も珍しいものではない)。

 ただ、松田の小論をきっかけに自身の経験を掘り起こしてみたかったのは、東京に暮らす人々、少なくとも当時の私にとっての「既知の空間」とは、半日はおろか、わずか10分強程でその境界を越えてしまう程に「かなり狭い」ものだったということだ。あの日、武蔵小山の駅前飲食街で感じた解放感は、恵比寿という街の中での自演的な振舞いからの解放であったと同時に、自分が日常的に身を置いている空間とは異質な、非日常の空間に身を置いていることによるものであったと思う。東京という都市には、おそらくこうした非日常の空間が点在している。もちろん、ある空間を異質なものたらしめる境界線は、個々人が抱いている日常空間の圏域に応じて変わってくるものなのだろうが、自身の経験に即していうならば、その圏域が東京全体を覆うことは日常的にはないだろう。「テリトリーのなれから、一歩ふみ出したとき、人は旅人となる」のだとするならば、わずか10分の距離でさえ、人は旅人になることができるのだ。


(続)


 ふくよかな漆黒、視線に向けて眠りなさいと微笑むかの如く横たわった深く底しれず、そうして優しい漆黒に、赤銅色の炎が舞う。黄金色の輪郭を与えられて物憂げな横顔を晒す青年。水飛沫が非現実の美をたたえ煌めいている。炎があり水があり土がある。そんな荒凉とした地を彷徨い、金網に愛撫されるような孤独を携えた面持ちをする青年二人、厳しい岩場にて灯りを掲げて佇む。彼らは出会い、影と光が寄り添う中で接吻を交わし、肌に触れ、交歓は行われる。それがデレク・ジャーマン監督作品『エンジェリック・カンヴァセーション』(1985)だ。

 映画の中で“天使”と呼ばれる存在は、様々な形で姿を見せた。ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』(1987)では、天使たちは洒脱なコートに身を包み、分断された都市にて絶望と疲労を抱えた人々に寄り添う、人間にとっては不可視の存在であった。ケネス・アンガー『ルシファー・ライジング』(1972)においては堕天使ルシファーが光の運搬人であり、その復活が壮絶に描かれた。ジャン・コクトー『詩人の血』(1932)においては、虫のような羽をはやした黒人の天使だった。天使は人間に幸福や温もりを与える存在とは限らない。天使とはいったい何か。天使という言葉を投げかける存在はいったい何か。天使は天上と地上とを媒介する存在であり、人間性と非人間性の真ん中に位置している存在である。コクトーの言葉を引用するのなら、「天使、それは潜水夫の力強い動作と、千の野鳩のすさまじい羽音に似て、見える世界から見えない世界に飛んでいく、輝かしい、可愛らしい、力強く、若々しい動物だ」。そして「天使にとっては、死は不可解である。彼は生きている者を圧し殺す」。では、この『エンジェリック・カンヴァセーション』…『天使のような会話』と題された本作において“天使”とは何であろうか。この中での天使たるものは、悲痛なまでに繰り返される、愛、それは天使のように美の最も完全な状態をしていると信じ込んでしまえるくらいの愛なのではないか。

 本作を非常に美しい“愛”の映画だと思わせるのはシェイクスピアのソネット詩集の引用である。本作に台詞は無く、ジュディ・デンチのソネット詩集の朗読が随所に挟み込まれるだけである。「目を閉じている時私は視力を増す だが眠ると夢の中に君の姿を見出す」シェイクスピアのソネットに関しては多種多様な推論があるが、シェイクスピアが美貌の青年貴族に「私は君の奴隷だから、君の望むままに全ての時を捧げよう君のため以外の時間に価値はない」とまでうたい、詩の中で彼が永遠に生きるだろうと述べ、高揚し、至福を噛み締め、苦悩しながらも誠実を誓い続けるという切羽詰まっているくらいに狂おしい愛の詩集である。「私は君の奴隷だ」…平気で魂を奪い取るくらいの残酷さを持ち、その残酷の中にはある純真があり、跪かせた者に高貴な威厳を発揮させるようなもの…もし、それを愛と呼ぶならば、詩人は愛する者、愛する者への愛に天使と名付けるのか。そのような愛に出会った瞬間の、視界を蹌踉めかせるような忘れ難い閃光を、人は天使と呼ぶのか。眩い大きな事件に絵の具を線を寄せて心を綴ることの喜び、その行為を『エンジェリック・カンヴァセーション』と呼ぶのか。綴る言葉以上の存在に見守られ、身を焼かれながらに味わう至福の時を天使と呼ぶのか。美の最も完全な状態、バルザック『セラフィタ』のような存在を愛した時、天使的な炎が燃ゆる階段に足をかけることになるのだろうか。

 荒凉とした、不毛とも思われる地において肉体や視線を寄せ合う二人の若者、天使二人。だが愛で燃ゆる彼らには言葉での“カンヴァセーション”は必要が無い。全ては光が知っている。本作は光で出来ている。荒廃した世界の中で水面が、金網が、光によって描かれ、男たちの頬や指先に光が口付けている。「煌めく光の中の君を拝めたのなら、私の目は祝福に震えるだろう」言葉、それは分節線によって区切られた、紙面の小さな紋章のようなものである。いくら精緻に恋人の顔を愛を語れども恋人を語れどその顔が浮かび上がることは無い、だが映画には視覚的なイメージがある。愛で光を描けたなら、愛の言葉を暗闇に放りそれが光となったなら…言葉も知らない風景を描くことができたなら。書かれたことより強く強熱を秘めた「言葉のない風景」「言葉による、会話の無い風景」それを描くのは光である。

 修飾を排し身を投げ出すように綴られた、抑えきれない赤裸々な愛の告白、呟かれる詩が粗々しいフィルムに発光し、縦横無尽に走る閃光に感傷的かつ情熱的な、どんな恐怖も厭わないような美しい叫びを受肉し、訴えかけさせる。デレク・ジャーマンはこの世のものではない、とまで思われるほどの愛を賞賛し、映画という虚構の中で燃え続ける不朽の光に感情を託したのではなかろうか。

 天使。愛の中に美を、芸術を見出し、そして再び芸術に昇華させる道を選ぶ者というのは、きっと天使であるに違いないのだ。五十二歳でこの世を去ったデレク・ジャーマンは我々に映像という詩を残し、肉体から離れて永遠に天使の生を生きている。 


(和泉萌香)

ファンタジー世界を舞台にしたゲームには

ほとんどの場合モンスターが登場する。


モンスターたちはプレイヤーの操る

キャラクターの障害として立ちふさがり、

時には仲間になったりもする。


それぞれのゲームによって

モンスターの立ち位置は大きく変わるが、

ゲーム世界に欠かせない存在だ。


そんな脇役たちについて

ゲームを制作する立場から

思うところを書いてみたいと思う。



さて、第一回はとても有名なモンスター

スライムについて語ってみたい。


スライムとは、どろどろねばねばした物体を

指す言葉で本来怪物の名前ではない。


しかし、どろどろねばねばというのは

容易に嫌悪感を掻き立てる形質である。

打ち倒すべき敵の性質としては悪くない。


想像でしかないが、スライムというモンスターを

発明したクリエイターは

初めは気持ち悪い敵、程度の認識で

自分の作品に登場させたのではないだろうか。


スライムは近代的な怪物である。

粘菌や極小の原生生物に着想を得て

生み出されたであろうことは想像に難くない。


つまり、生物学の発展によって

語られるようになった

新しい怪物のイメージなのだろうと思う。


古今東西の神話や伝承に

登場する怪物ではないということだ。


伝統的な怪物と異なり、

この新しい怪物は“科学的”に

その生態が設定されてきた形跡が見受けられる。


スライムは原始的な食欲のみの怪物であり、

切断しようがすり潰そうが群体を

死に至らしめることはできない。


触れたものは何でも消化吸収してしまう

大変恐ろしい怪物だ。

映画の題材になったことで

このイメージは一般化していく。


火というわかりやすい弱点を持つことも、

最終的に人類が叡智によって勝利する

対象として大変都合が良い。


ところで、どろどろとしていて、

際限なく何でも飲み込んでいく恐ろしいもの。

それは自然界にひとつ存在する。


溶岩、いわゆるマグマだ。

もしかするとスライムという怪物のイメージには

このマグマも重ねられているのかもしれない。


ここからマグマスライムという

火に強いスライムを考えることができる。

だが、こいつにも弱点はある。

冷却してしまえば固まるのだ。


ファンタジー世界には概ね魔法が存在し、

吹雪を起こすようなことが可能である。

こういった上級魔法を操ることで

退治が可能なマグマスライムは

通常より強いスライムとして活用できる。


そう、ゲームのモンスターには

進行度に応じた強さの設定が必要なのだ。


毒素を持つなど色々な種類を用意できる

スライムは、このバランス調整に都合がいい。

ファンタジーゲームの定番となるのも当然だ。


日本でまだロールプレイングゲームというものが

メジャーではなかった頃、

つまり紙と鉛筆とサイコロを使っていた頃、

これを簡略化したビデオゲームが登場する。


誰もが知る有名作品なのだが、

不思議なことにこのゲーム、

前述の恐ろしい怪物スライムを

最も脅威度の低い最弱のモンスターとした。


しかもその見た目はどろどろねばねばしておらず

間抜けな愛嬌のある顔がついていた。

このスライムは後にタイトルの看板を背負う

マスコットキャラクターになった。


従来のスライムとは似ても似つかない

このモンスターはロールプレイングゲームに

不慣れなプレイヤーたちに

何の疑問も無く受容されていく。


するとどうだろう。

後発のゲームは序盤の弱い敵として

スライムを念頭に置いた、

ぷるぷるとした愛嬌のあるモンスターを

当たり前のように出すようになっていったのだ。


もちろん、従来のイメージに近い

武器の通用しない厄介な敵として

登場させるゲームも少なくはない。


しかし、一度人口に膾炙した“弱い”イメージは

なかなか抜けるものではない。


それを逆手に取って、昨今流行りの

異世界転生モノではスライムと侮って

危険な目に遭う描写も見受けられる。


私個人の考えとしても

スライムが弱いとは思えない。

先述の通り、火や魔法を使わなければ

倒すことのできない強敵であるべきだ。


単に武器で殴れば倒せるのではなく、

有限のリソースを割いて

撃退しなければならない厄介な障害。

プレイヤーに適度なストレスを

与えるのにちょうどいい。


ところで、自分で一からデザインできる

ゲームであれば自然災害クラスの存在として

スライムを登場させてみたいと思う。


森を飲み込み、村を飲み込み広がり続ける脅威。

それが都市へと迫りくる。

こんな状況、強大な魔法でもなければ

切り抜けることができないだろう。


魔法というファンタジー世界特有の切り札を

印象付けることのできる見せ場だ。

大魔法使いの強さを表現できる演出でもある。


それにしても、なぜあの有名作品では

身を守る毛皮も鱗も無く、

敵を殺傷する牙も爪も無い、か弱い存在に、

厄介なことで知られていたスライムという

怪物の名前を付けてしまったのだろう。


名前付け。ネーミングは

ゲームに登場するモンスターの制作に

必須の作業である。


何故その名前を付けたのか首を傾げたくなる

モンスターはあちらこちらで見受けられる。


ここはひとつ、次回は有名な怪物を例に挙げ、

モンスターの名称について

気になっていることを語ってみようと思う。



泉井夏風(シナリオライター)