「どうとりくめばよいのか、わたしにはもうわかっていた。六マイル手前ではまだ何もわかっていなかったのに。突如として直観されたのではない。少しずつ確かな感触を帯びて、まるでどこかの場所を知ってゆくように意味を感じとっていったのだ。場所に身を投じたなら、場所は私たち自身を投げ返してくれる。場所を知ってゆくことは、記憶と連想の見えない種をそこに植えてゆくことだ。そこはあなたが戻ってくるのを待っている」(レベッカ・ソルニット『ウォークス―歩くことの精神史』)
昔から歩くことが好きだった。
名勝・景勝地の類を訪ねる観光でも、知らない街をふらりと訪れるような散策でもない。既知の場所、決まったコースを歩く。もちろん、都度あらたな発見があるわけでもない。
歩くのは「ひとり」に限る。誰かと一緒にいる際に避けがたく生じる「何者かであらねばならない」という強迫や焦燥から離れ、ただそこにあるだけの存在になりたかった。
歳を重ね、幾分疲れやすくなってからは、途中に休憩をはさむ。チェーン店のカフェかファミレス、個人店の居酒屋ではなかなかそうもいかないけれど適度に放っておいてくれるところがいい。人の存在を気配という程度に感じられる場所。そういう場所を好んでいた。
だから随分の間、自分は端的にひとりでいることを好んでいるのだと思っていた。
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ちょうど一年前、近しい者を亡くした。突然のことだった。
「足元がゆらぐ」という表現が、単なる悲しみの喩えではないことを知った。文字どおり立ち上がる気力さえなく、ただただ茫然とするほかなかったが、それでも悲しみは時に大波のごとく、時に小波のように押し寄せてくる。不意の到来を避けるように、重く沈んだ身体を無理におこして、いつものようにただ歩いた。やがて自分を取り繕うことができる程度には、その人が「不在」の世界に、触れることができなくなってしまった現実に、慣れていった。
だけれども見慣れたはずの場所を歩いていると、その人の存在を強く感じる瞬間がある。
それまでは単なる休憩地でしかなかったファミレスの前を通りかかれば、その人とふたりで食べたパンケーキの香りが、まだ幼かった自分を見つめるやわらかなまなざしがふいによみがえってくる。駅前の雑踏に目をやれば、思春期のころふたりでいることがどこか気恥ずかしく、待ち合わせをしても邪険にふるまってしまったこと、そのときのさびしそうな目を思い出す。訪れる悲しみが、その人との記憶を、存在の輪郭を、感じさせてくれる。
批評家・若松英輔氏は、若くして妻を亡くした経験を踏まえ、「悲しみ」を「死者が生者の魂に触れた合図」と評している。悲しみこそ、死者の「臨在」をもっとも強く実感させてくれるものなのだという。その意味を、今は身をもって理解することができる。触れることさえかなわないその人に、私の世界がこんなにも満たされていたことにも。
相変わらず、決まった場所ばかり歩いている。ただ今では、傍らに寄り添う者の気配を近くに感じる。ひとりではないことを感じている。
散歩をともにする者ができた。
とはいえ、週に一度、それもわずか10分にも満たないのだけれど。
小さな身体にたくさんの荷物を抱えてバスを降りてくる、その子の小さな手をひく。何てことはない小道であっても、その子の目線に立てばいつも新鮮な発見があるのだろうか。
「この実はなに?」
「あの花は?」
毎回返答に窮してはポケットからスマホを取り出し、画像検索にかける。「ノゲシ」と告げると、自分ひとり世界の秘密にふれたかのように目を輝かせ、「ノゲシ、ノゲシ」とつぶやきながら、ふたり家路に向かう。思えば、私には「近所」としか言いようのないわずか数百メートルの道のりも、まだ幼いその子にとっては「世界」そのものなのだということを知る。
やがて「世界」が広がり、手をつなぐことがなくなったとしても、この小道がささやかでも特別な場所として、あたたかな拠り所として思い出されるように祈りながら、ふたりで歩く。
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「地元」という(私にとっては)ひどく曖昧で、朧気な、人と土地とを結ぶ関係・意識のありようについて考えてきた。不定期という言葉に甘え、3年以上の月日が経ってしまった。
その間に大きな変化があった。コロナまた世界的な災禍とは別に、大切な人との別れ、そして出会いが、私にとってはそれだ。触れることさえかなわない人との記憶、あるいは小さなぬくもりに触れる幼子との日々。かつては「自分の住んでいる土地。また、出身地」という辞書以上の実感をもたなかった「地元」という言葉にも、今は少し違った感触を抱いている。
「地元(意識)」とは極私的な経験に根ざした、ある土地・ある場所に対する特異かつ固有な関係・意識のありようであると、第3回では書いた。それゆえその内実を他人が同定することなどできないし、反面その結びつきが強固なものであるほど、みずから対象化することも難しい。本連載は、自身と所縁のあった地を再訪しながら、その時々の私ないし土地との関係をとらえなおしてみようとするものだった。言い換えれば、記憶を媒介しながら幾分か距離をとり、自分を「他者」として眺めようとするほんの小さな試みだったのかもしれない。
先に触れた自身の変化から考えるのは、「自分の住んでいる土地。また、出身地」という辞書的な定義に、それ以上の実感や意味を与える「地元」という意識の範囲は、はたして巷間いわれるほどに広いものなのかということである。少なくとも私にとって小田原という地を特別なものたらしめているのは、たとえば日課として歩く限られた範囲(そこは亡き人との記憶に満ちている)、あるいは幼子とふたりで歩く数百メートルの小道に過ぎない。いずれも私的な記憶やその集積として紡がれた具体的(・・・)な(・)場所での小さな物語によっており、それらを総じて大きな地名(小田原)のもとに語ることはできない。この地の殊更な歴史、他所と比較することで見出される何がしかの特徴が、私にとって「ここ」を特別な場所にしているわけではない。そう考えれば、傍目には置き換え可能で特徴のない「均質な風景」として映るような場所も、誰かにとっては特別な場所として生起しているということは十分にありうる。特別な場所―「地元」になり得ない場所など、この世のどこにも存在しはしない。
もちろん、ある土地・ある場所と個人を結ぶ固有の関係や物語が、その地のより大きな歴史や社会により規定されている場合もあるだろうし、他所と比較することで見出される何がしかの特徴が土地への愛着を育んでいるということもあるだろう。関係や物語は必ずしも、あまく、あたたかなものばかりとは限らない。
ここまできてとうとう「私にとっては」という但しを外すことができなかった。ただ、それこそが「地元」という意識の特異なありようそのものなのではないか、という気がしている。
次の冬が訪れるまでに、小さな住まいを建てようと思っている。
地名で括ってしまえばそれなりの広さをもつ範囲にあって、奇しくも選んだのは私自身が幼少を過ごし、今では亡き人が眠る場所の、まさに傍らに位置している。幼子のみならず、私の「世界」も結局驚くほどに狭い。おそらくこの場所を、生涯離れることはないだろう。
「あなたの地元はどこか」と問われれば、未だ返答に窮してしまう。
しかし「“ここ”はあなたにとってどういう場所か」と問われたならば、「“ここ”が私の地元」なのだと、今は確かに、こたえることができる。
(了)