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 「どうとりくめばよいのか、わたしにはもうわかっていた。六マイル手前ではまだ何もわかっていなかったのに。突如として直観されたのではない。少しずつ確かな感触を帯びて、まるでどこかの場所を知ってゆくように意味を感じとっていったのだ。場所に身を投じたなら、場所は私たち自身を投げ返してくれる。場所を知ってゆくことは、記憶と連想の見えない種をそこに植えてゆくことだ。そこはあなたが戻ってくるのを待っている」(レベッカ・ソルニット『ウォークス―歩くことの精神史』)



 昔から歩くことが好きだった。

 名勝・景勝地の類を訪ねる観光でも、知らない街をふらりと訪れるような散策でもない。既知の場所、決まったコースを歩く。もちろん、都度あらたな発見があるわけでもない。

 歩くのは「ひとり」に限る。誰かと一緒にいる際に避けがたく生じる「何者かであらねばならない」という強迫や焦燥から離れ、ただそこにあるだけの存在になりたかった。

 歳を重ね、幾分疲れやすくなってからは、途中に休憩をはさむ。チェーン店のカフェかファミレス、個人店の居酒屋ではなかなかそうもいかないけれど適度に放っておいてくれるところがいい。人の存在を気配という程度に感じられる場所。そういう場所を好んでいた。

 だから随分の間、自分は端的にひとりでいることを好んでいるのだと思っていた。




 ちょうど一年前、近しい者を亡くした。突然のことだった。


 「足元がゆらぐ」という表現が、単なる悲しみの喩えではないことを知った。文字どおり立ち上がる気力さえなく、ただただ茫然とするほかなかったが、それでも悲しみは時に大波のごとく、時に小波のように押し寄せてくる。不意の到来を避けるように、重く沈んだ身体を無理におこして、いつものようにただ歩いた。やがて自分を取り繕うことができる程度には、その人が「不在」の世界に、触れることができなくなってしまった現実に、慣れていった。


 だけれども見慣れたはずの場所を歩いていると、その人の存在を強く感じる瞬間がある。

 それまでは単なる休憩地でしかなかったファミレスの前を通りかかれば、その人とふたりで食べたパンケーキの香りが、まだ幼かった自分を見つめるやわらかなまなざしがふいによみがえってくる。駅前の雑踏に目をやれば、思春期のころふたりでいることがどこか気恥ずかしく、待ち合わせをしても邪険にふるまってしまったこと、そのときのさびしそうな目を思い出す。訪れる悲しみが、その人との記憶を、存在の輪郭を、感じさせてくれる。

 批評家・若松英輔氏は、若くして妻を亡くした経験を踏まえ、「悲しみ」を「死者が生者の魂に触れた合図」と評している。悲しみこそ、死者の「臨在」をもっとも強く実感させてくれるものなのだという。その意味を、今は身をもって理解することができる。触れることさえかなわないその人に、私の世界がこんなにも満たされていたことにも。


 相変わらず、決まった場所ばかり歩いている。ただ今では、傍らに寄り添う者の気配を近くに感じる。ひとりではないことを感じている。



 散歩をともにする者ができた。

 とはいえ、週に一度、それもわずか10分にも満たないのだけれど。


 小さな身体にたくさんの荷物を抱えてバスを降りてくる、その子の小さな手をひく。何てことはない小道であっても、その子の目線に立てばいつも新鮮な発見があるのだろうか。


 「この実はなに?」

 「あの花は?」


 毎回返答に窮してはポケットからスマホを取り出し、画像検索にかける。「ノゲシ」と告げると、自分ひとり世界の秘密にふれたかのように目を輝かせ、「ノゲシ、ノゲシ」とつぶやきながら、ふたり家路に向かう。思えば、私には「近所」としか言いようのないわずか数百メートルの道のりも、まだ幼いその子にとっては「世界」そのものなのだということを知る。


 やがて「世界」が広がり、手をつなぐことがなくなったとしても、この小道がささやかでも特別な場所として、あたたかな拠り所として思い出されるように祈りながら、ふたりで歩く。




 「地元」という(私にとっては)ひどく曖昧で、朧気な、人と土地とを結ぶ関係・意識のありようについて考えてきた。不定期という言葉に甘え、3年以上の月日が経ってしまった。


 その間に大きな変化があった。コロナまた世界的な災禍とは別に、大切な人との別れ、そして出会いが、私にとってはそれだ。触れることさえかなわない人との記憶、あるいは小さなぬくもりに触れる幼子との日々。かつては「自分の住んでいる土地。また、出身地」という辞書以上の実感をもたなかった「地元」という言葉にも、今は少し違った感触を抱いている。


 「地元(意識)」とは極私的な経験に根ざした、ある土地・ある場所に対する特異かつ固有な関係・意識のありようであると、第3回では書いた。それゆえその内実を他人が同定することなどできないし、反面その結びつきが強固なものであるほど、みずから対象化することも難しい。本連載は、自身と所縁のあった地を再訪しながら、その時々の私ないし土地との関係をとらえなおしてみようとするものだった。言い換えれば、記憶を媒介しながら幾分か距離をとり、自分を「他者」として眺めようとするほんの小さな試みだったのかもしれない。


 先に触れた自身の変化から考えるのは、「自分の住んでいる土地。また、出身地」という辞書的な定義に、それ以上の実感や意味を与える「地元」という意識の範囲は、はたして巷間いわれるほどに広いものなのかということである。少なくとも私にとって小田原という地を特別なものたらしめているのは、たとえば日課として歩く限られた範囲(そこは亡き人との記憶に満ちている)、あるいは幼子とふたりで歩く数百メートルの小道に過ぎない。いずれも私的な記憶やその集積として紡がれた具体的(・・・)な(・)場所での小さな物語によっており、それらを総じて大きな地名(小田原)のもとに語ることはできない。この地の殊更な歴史、他所と比較することで見出される何がしかの特徴が、私にとって「ここ」を特別な場所にしているわけではない。そう考えれば、傍目には置き換え可能で特徴のない「均質な風景」として映るような場所も、誰かにとっては特別な場所として生起しているということは十分にありうる。特別な場所―「地元」になり得ない場所など、この世のどこにも存在しはしない。



 もちろん、ある土地・ある場所と個人を結ぶ固有の関係や物語が、その地のより大きな歴史や社会により規定されている場合もあるだろうし、他所と比較することで見出される何がしかの特徴が土地への愛着を育んでいるということもあるだろう。関係や物語は必ずしも、あまく、あたたかなものばかりとは限らない。

 ここまできてとうとう「私にとっては」という但しを外すことができなかった。ただ、それこそが「地元」という意識の特異なありようそのものなのではないか、という気がしている。


 次の冬が訪れるまでに、小さな住まいを建てようと思っている。

 地名で括ってしまえばそれなりの広さをもつ範囲にあって、奇しくも選んだのは私自身が幼少を過ごし、今では亡き人が眠る場所の、まさに傍らに位置している。幼子のみならず、私の「世界」も結局驚くほどに狭い。おそらくこの場所を、生涯離れることはないだろう。



 「あなたの地元はどこか」と問われれば、未だ返答に窮してしまう。

 しかし「“ここ”はあなたにとってどういう場所か」と問われたならば、「“ここ”が私の地元」なのだと、今は確かに、こたえることができる。



                                      (了)











 橋を渡るときには、いつも不思議な感覚を抱く。


 それは「橋」というものが、広く境界にかかわるものであることと関係しているのだろう。

 かつて川は交通途絶の最たるものであり、ひとつの地域・社会の連続性が絶たれるところとして存在してきた。今日でも川を県境・市境としている例は少なくない。あるいは現世にとどまらず、三途の川の例にもあるように、古より川は「あの世」と「この世」を隔てる境界として人々の想像力のうちにとらえられてもきた。

 一方でその上に架けられる「橋」はどうか。語源には諸説あるが、たとえばそこに「端」の字があてられる場合には、橋は「物事の始まるところと、その尽きるところ、すなわち始点と終点」を同時に意味するものと考えられてきたようだ(川田忠樹『橋と日本文化』)。

 私自身が「橋」と聞いて思い浮かべるのは、横浜市内を流れる鶴見川に架けられた大綱橋という橋である。20代から30代へと至る約3年間を、私はこの橋のたもとにある綱島という街で過ごした。縁をことさら信じる質ではないが、今でもよく思い出すこの街に暮らすようになったのには、それでも何か導きのようなものがあったような気もしている。


鶴見川と大綱橋。晴れた日の午後に散歩するのにうってつけの場所。


 不思議なことに、さしたる特徴もないようにみえたこの街には、実際に訪れる以前から何かひっかかるものを感じていた。渋谷と横浜をつなぐ東横線は、道中でふたつの大きな川を渡る。ひとつは東京と神奈川の県境を流れる多摩川。多摩川を挟んだ一方には東京屈指の住宅地・田園調布が広がり、もう一方にはここ十数年で急増した武蔵小杉のタワーマンション群がそびえる。実家のある小田原から都内の下宿先へと戻る際、この川を渡ると自然と身が軽くなる気がした。それは人生にかかわる決断を、都内での慌ただしい(なかばフリだったが)生活を理由に先延ばししていたことともかかわっていた。今にすれば単なるモラトリアムに過ぎなかったのだが、私にとって多摩川の先に広がる「東京」は、匿名的にはあれない「地元」の重力からひと時自由になるための私的な聖域のようなものだったのではないか。多摩川は「地元」の重力が尽きる終点であり、別の生活がはじまる始点でもあった。

 ただ、私にとって特別だったのは、もうひとつの川―多摩川に比べれば幾分か地味な鶴見川の方だった。沿線に連なる住宅地を横目に大倉山を抜け、鶴見川へと至ると束の間視界が開ける。河川敷にはラブホテル(今日なんと呼ぶのかよくわからない)が並び、大綱橋を渡り駅が近づくにつれ、雑居ビルやパチンコ店などがごちゃごちゃと混在する街並みが目に入ってくる。閑静な住宅地がイメージされがちな東横線からすればどこか雑多な空気が漂うそのあたりを通過するたび、胸がざわついた。それは特別な風景といえるほどに特徴をもったものではなかったけれど、そこに人が居る、人の生活が在ることを強く意識させるものだったように思える。だから雑多な空気とは、人が日々を営むうえで醸す生活のにおいと言い換えることができるのかもしれない。そしてそれは当時の私が無意識に遠ざけたかったものであり、地元に抱く「重力」と同質の何かだったようにも思う。



 綱島を初めて訪ねたのは、同地で暮らすようになる2年ほど前、20代半ばを過ぎた頃だった。思えば当時の生活は荒れていた。地元に戻ること、浴場業を営む父の後を継ぐこと、そのことが常に胸のうちにありながら、それでも何か別の可能性もありうるのではないかとまったく違う仕事に就き、かつ学生気分を拭えないまま未練がましくも仕事の傍ら大学院に通ってみるなど、何もかもが中途半端だった。いずれにも腰が据わらないがゆえ、身になるものもあまり身にならず、鬱々とした気分で日々を過ごしていたことを思い出す。

 そうした日々の中で、ただひとつ深呼吸できたのは奇しくも公衆浴場(銭湯)だった。見ず知らずの人々に交じり、ただただ湯につかる。生業になった今でも浴場が好きなのは、誰しも(裸で)同じ場を共有していながらも、互いに干渉しあうことなく、それでいてゆるやかな連帯を感じさせてくれるところだ。人はたしかにそこに居る。だが強いプレゼンスを発することなく、むしろ輪郭のぼやけた気配のようなものとしてそこに存在しあっている。何者かであろうとすることから解放されるそのひと時だけ、何も考えずにいられた。遠ざけているはずのものに救われる、というのもおかしな話だけれど。

 ちょうどその頃、飲み友達で学生時代の後輩であったY君から「おもしろい浴場を見つけたので行ってみませんか」という誘いを受けた。聞けば、昭和名残の古い浴場で、湯は真っ黒なモール泉。おまけに持ち込み自由な宴会場まで併設されているという。勢い胸は高鳴ったが、それが綱島にあると聞かされて一瞬ためらった。とはいえ、それは行かずにおくほどの理由にもならず、週末に綱島の駅前で待ち合わせることになったのだった。

 黄色の外壁に古めかしい書体で掲げられた「綱島ラジウム温泉 東京園」の文字。一見すると派手ともとれるその外観はただ、経年による褪せと相まってか、不思議と周囲から浮かずに無理なくおさまっていた。900円の入館料(たしか1時間以内の入浴ならば半額だった)を支払いなかに入れば、駅からわずか30秒の距離にあるとは思えない広々とした庭が視界に入ってくる。手入れがされているとも、されていないともとれる飾り気のない庭に沿い、常連と思しき年配の常連たちが互いに持ち寄った総菜を広げて早めの昼食を楽しんでいる。


東京園の2階から中庭をのぞむ。ここだけ時間が止まっているようだった。


 ささやかな宴を横目にさらに奥へと歩みを進めると浴場の入り口へと至る。浴場内は一風変わっている。色とりどりのタイルで構成された幾何学模様が描かれた壁面はレトロなのか、はたまた前衛的といえるのか。中央の円形型の大きな浴槽は、ヌルっとした肌触りの墨汁のような黒湯でみたされていた。ひとたびつかれば数センチ下の手先も見えない。そういえば谷崎潤一郎に、湯船の底に女の死体が沈んでいるという妄想にかられた小説があったなと、なんだか妙なことを考えた記憶がある。もちろんそんなものがあるはずもない。

 着替えをすまして浴場をでると、どこか懐かしい醤油と味醂の匂いが漂う。浴場を出てすぐ、売店のショーケースにはスナック菓子や乾き物のほか、紙皿にのせられた煮魚やきんぴら、焼きそばなど、総菜の数々が。口にする前からどんな味かおおよそ想像つくものばかりだけれど、心が躍った。Y君と適当に総菜をみつくろい、瓶ビールを片手に大広間に踏み入ると、すっかりデキあがった酔客が方々で宴会をはじめている。遠慮しながら隅に腰を下ろし、買ったばかりの総菜をつつく。すると突然大音量で演歌のイントロが流れ出した。広間中央に目をやればそこは広々としたステージで、禿頭の小柄な老人が隅でマイクを握りしめている。カラオケつきの宴会場が併設された浴場がかつてはあちこちにあったことは知っていたし、実際に行ったこともあったのだけれど、驚いたのは曲がはじまるや否や、あちらこちらからステージに人が集まり社交ダンスをはじめたことだった。演歌に社交ダンスの組み合わせも不可思議だが、よくよく目をこらせばこのために用意したと思しき衣裳を着た女性の姿も。二人して呆気にとられているうちに曲は終盤を迎え、踊り手たちは再び各々の宴席へと戻っていく。「なんだったんですかね……」とつぶやくY君の傍らで、私自身はこの光景をどこかで目にしたことがあったような気がしていた。いや、「目にした」というのとは少し違うかもしれない。


宴会場。なぜだか宇宙船の艦内を彷彿させる。

 

 既視感のわけをぼんやり考えているうちに思いあたったのは、時折聞かされていた、父の切り盛りする浴場のかつての姿だった(だから厳密には既視とはいえない)。先代から父が引き継いだそのころには受付に人さえおらず、ぶらさげられた回収箱に自己申告で利用料を収めるほど簡素な施設だったという。葦簀張りの浴場のほかには、やはり休憩処としてカラオケ付きの宴会場が設けられていたそうだ。朝早くから営業していたこともあり、俱利伽羅紋を背負った人々や夜勤を終えたばかりの作業員が多く、酔っぱらっての喧嘩もなくはなかったが、それでもそこには暗黙の秩序があり、場を共有しながらも各々に干渉しあうことなく寛ぐ姿があったという。「あのアナーキーな世界は、それはそれで心地よく、おもしろかった」と父はよく話してくれた。そういえば、温泉好きで知られる独文学者・種村季弘氏のエッセイに、施設の当時の姿を好意的に伝える一文を目にしたことがある。そのころ広がっていた光景はおそらくこんな感じ(さすがに社交ダンスはないにせよ)だったのではないだろうかと、居心地のよさと懐かしさに似た感覚が胸のうちに広がっていった。



 綱島とのかかわりに変化があったのは20代の終わり、結婚を決め、新たに住まいを探さねばならなくなったことがきっかけだった。

 候補はいくつかあった。手狭であれば都内に暮らし続けることもできなくはなかったし、隣接する神奈川も西へ進めば安価に住まいを求めることもできたが、それでもまっさきに頭に浮かんだのはやはり綱島だった。理由にはもちろん東京園の存在があった。下宿先の最寄り駅から綱島まではほぼ一本、時間にして30分にもみたない距離だったが、それでも週に2~3度、わざわざ川(多摩川)を渡って湯浴みにやってくる若造が珍しかったのか、気づけば顔見知りもでき、宴会場で酒や肴を振る舞われる機会も増えた。ほろ酔いの常連がその後に流れる場所は大体決まっていて、そのときに連れて行ってもらった立ち飲み屋には、綱島に暮らすようになってからも足しげく通うことになる(おおよそ想像しうるすべての人間ドラマが詰まったような酒場で、思い返すとかなり強烈な場所だった)。


 「ここを地元にしたいと思ったんです」


 綱島への転居を考えていることを、顔見知りの常連に伝える際に、そんな一言がふと口をもれたことがあった。もちろん、綱島に永住するつもりなどなかったし、数年の後に「地元」に戻らなければならなくなるであろうことも理解はしていた。それでもなお、人生のうちのほんの数年を過ごすにすぎない土地を「地元にしたい」と口にしたそのとき、自身のなかで何かがかわりはじめている感触があった。浴場という共同性にみちた空間に寄せる人々の感情、その場に生起する平穏な時間。そうした場所や時間にかかわる生業に、かすかな希望を抱きはじめていた。綱島を「地元にしたい」と口にしたとき、その先に重ね見ていたのは、鶴見川にかかる大綱橋のはるか先の、本当の「地元」ではなかったか。



 そのおもいに、より明確な輪郭を与えたのは、綱島に移ってから1年も経たないうちに届いた「東京園の無期限休業」、事実上の閉業の報せだった。

 鉄道の延線にともなう再開発により、東京園が取り壊されるという噂はそれ以前からあった。ただ、何度も浮上しては消えを繰り返していたらしいことから、早晩おこる話ではないとどこかで高を括っていたため、その報せはまさに青天の霹靂だった。

 綱島には「東京の奥座敷」と称され、温泉街として栄えた時代がある。最盛期には300名近い芸者が街を闊歩していたという記録から往時の賑わいが伺える。しかし何度かの浮き沈みを経験し、とりわけ新幹線が開通して以降、箱根・熱海(奇しくそれは私の「地元」である)へのアクセスが簡便になるにつれ、その地位は徐々に失われていった。往時の唯一の名残、東京園の閉業は綱島の温泉地としての歴史が終焉することをも意味していた。

 東京園閉業の報せが広まってからの数か月、週末は毎度ちょっとしたお祭り騒ぎだった。安価に宴会場を貸し切れることから、閉業を偲び種々様々なイベントが企画され、多くの人々が集った。ただ、東京園に寄せるおもいの強さを感じさせられる一方で、正直なところどこか居住まいのわるさを感じていたことも思い出す。少なくとも私にとって東京園はけっしてハレの場ではなかった。飾り気のない庭を眺めながら持ち寄った総菜を広げ歓談する常連たち、顔見知りが歌う演歌に乗じてなされる奇妙な社交ダンス。そうした人々の日常―ケの時間に寄り添う場所としてあり続けたのが東京園だと思えたからだ。2015年5月19日、幕をおろすその日、浴場内にみちていたあの穏やかな時間こそ、東京園の本当の姿ではなかったかと今でも思う。


閉業する数日前のステージ。「祭」の合間の穏やかなひと時。


 閉業の決断をとがめることなど、もちろん誰にもできない。時代の盛衰のなかで土地が姿をかえていくことも無理からぬことだとも思える。それでも、ある場所がかわらずそこにあり続けるには、その場をまもろうとする強い意志が必要であること。そして父が生涯を賭け、営み、まもりつづけたその場所が、誰かにとり、私にとっての「東京園」であるならば。静かに背中を押された気がした。



 とはいえ、いささか格好つけて記してはきたものの、その後の顛末はといえば、あまりに無様だったと言わざるを得ない。仕事は相変わらずの低空飛行を続け、職場や同僚には迷惑をかけた。なかばノイローゼになりながらその後に2年もの時間を要した修論は、お世辞にも満足のいくものにはならなかった(余談ながら、無理やりでっちあげた論文は偶然にも、晩年を綱島で過ごしたとある写真家についてのものだった)。

 ただそれでも、行先を定められないまま喘ぐしかなかった日々を思い返すとき、背中を押され、わずかながらも深く息をすることができるようになったのには、東京園という場所との出会い、綱島という街で過ごした束の間の日々が確かにかかわっている。


夢の跡。8年が過ぎた今もなお工事は続いている。

 

 「綱島」という地名の由来には、鶴見川と早渕川というふたつの川に挟まれた土地、つまり「中州」がツナシマと呼ばれていたことから、次第に周辺地域をも指すようになったという説がある。ふたつの川、ふたつの境界。我田引水的に領域を拡大し、冒頭で述べた多摩川と鶴見川に挟まれた一帯を広大な「中州」とみなしみてみる。そのようにして考えてみれば、迷走する都内での生活を清算し、帰郷するまでのわずかな時間を過ごすのには、「東京」と「地元」というふたつの重力に挟まれながらも、ふたつの川(境界)により隔たれた余白、中洲のような場所こそ、あのころの自分には相応しかったのだろう。

 家庭をもつこと、人生の行き先を定めること、ひとつの地に根をおろすこと。月並みにも人生の過程をそんな通過儀礼の連続として考えてみるのならば、当時の私自身もまた、ある段階とある段階の敷居に立つ、境界的で、曖昧な状態(リミナリティ)にあったのではないかとも思える。「橋」を渡り、「地元」に戻った今の私が、はたして成熟した状態としてあれているのかは未だ、はかりがたいのだけれども。


                                      (続)

 2023年7月1日(土)~11日(火)、銀座のギャラリー枝香庵で島村洋二郎展が開かれました。そのご報告をさせて頂きます。

 2018年6月アートギャラリー884で洋二郎展を開いて以来、コロナ禍を挟み、5年ぶりの洋二郎展でした。そして、1956年サトウ画廊、1987年現代画廊に続く、銀座では3度目の洋二郎展です。

 親身になって準備を進めてくださったギャラリー枝香庵のオーナー荒井よし枝さん、スタッフの方々ありがとうございました。会場に駆けつけてくださった皆様、応援してくださった方々にも心より御礼申し上げます。



ヒロアキさんが作成してくれたリーフレットは、とても好評でした。


展示監修 小寺瑛広


 今回の洋二郎展は、日本近代美術研究者であり、『カドミューム・イエローとプルッシャン・ブリュー』の総論を書いてくれた小寺瑛広さんに、キャプション、展示などをお願いしました。

 作品数が多かったにも関わらず、会場の雰囲気とも良くマッチして、「見やすい」「作品が身近に感じられた」「作品の背景が良くわかり、理解が深まった」など、嬉しいお言葉が続きました。


 作品は、初期の作品から、晩年の作品が展望できるように、3つの時期に分けて展示されています。


*画業の始まり   1935-41 魂のモンパルナス、神楽坂 19歳―25歳


*生活か、絵か   1941-47 飯田、杉並、世田谷、横須賀、関 25歳―30歳


*洋二郎芸術の誕生、そして死 1947-53 恋の絵画、苦悶の絵画 31歳―37歳



洋二郎の20代作品は、今まで展示される回数が少なかったものも多く、かえって見る方には新鮮に映っていたようです。


展覧会初日


 初日から沢山の方が訪れてくれました。

 画家の木下晋さんも来てくださいました。

 1987年、銀座現代画廊で洋二郎展を開いたときから、木下さんはずっと会場に足を運んでくださっています。今回はご自身の個展のすぐ後でもあり、見て頂くのは難しいと思っていました。

 木下さんに書いて頂いた2013年洋二郎没後六十年展のリーフレット掲載文章は、『カドミューム・イエローとプルッシャン・ブリュー』210頁に載せてあります。どうぞご覧ください。


7月1日会場にて 木下晋さん


7月2日Event ヴァイオリン演奏と講演


 今回も、京都から洋二郎の姪の香西理子さんが駆けつけてくれ、ヴァイオリンの演奏をしてくれました。

 曲目は、「ニーナの死」「アメージング・グレース」「シューベルトのセレナーデ」「タイスの瞑想曲」の4曲。ピアノ伴奏は荒井真梨子さん。理子さんは、洋二郎の思い出話なども挟みながら、しっとりと演奏してくれました。真梨子さんと理子さんは、桐朋学園の同窓生で、不思議なご縁を感じずにはいられません。

 理子さん、真梨子さん、心に響く演奏をありがとうございました。尚、理子さんが洋二郎などの思い出を語った文章は、『カドミューム・イエローとプルッシャン・ブリュー』272頁に載っています。ぜひ、お読み下さいませ。


ピアノ伴奏の真梨子さん、ヴァイオリン演奏の理子さん


 演奏の後には、小寺瑛広さんの洋二郎作品についての講演がありました。豊富な資料が紹介され、洋二郎が沢山の先人画家たちから学びつつ作品を作り上げてきたことが語られました。

 晩年の作品にスポットが当てられることが多かった洋二郎作品ですが、このように、20代の頃からの作品にも目を向けて眺めていくと、その変遷が分かり、努力の人だったことが分かります。

 小寺さん、素晴らしい講演を、ありがとうございました。


リーフレットの威力


 ヒロアキさんが作成してくれた今回のリーフレットは、とても好評でした。

 メールに添付して送ると、「素晴らしいリーフレットですね」と、返信が来ました。

 手渡すと、「お~! 素敵なリーフレットですね。」と、返ってきました。

 一番驚いたことは、ギャラリーのビルの1階にある洋品店の店先に置かれたリーフレットに目を留め、わざわざ作品を観るために7階まで来てくれる方が、何人もいらしたことです。そして、熱心に観て頂けました。銀座という土地の面白さかなとも思いました。


ビル1階の店先に置かれたリーフレット


画家の心をつかむ


 画家の芥川麟太郎・すまる夫妻が来てくださったのは、2日でした。実に丁寧に作品をご覧くださいました。《横顔の女》、《婦人像》の前で、いつまでも立ち続けて見入る姿にはハッとさせられました。

 その後、麟太郎氏は、再度会場を訪れてくれました。真剣に『横顔の女』(今回新たに発見され、所蔵者の厚意で展示された)を見つめる眼差しには、声を掛けることが憚られるものがありました。


《横顔の女》クレパス 1953年頃


《婦人像》1943年頃 油彩


 『婦人像』では、「作品の内側から、光が差してくる」と語っておられました。


 初めて洋二郎作品をご覧になる方も沢山おられました。

 枝香庵での木下晋展のおり、置かれていた洋二郎展リーフレットを手にしたある画家さんは、鎌倉からわざわざ観に来てくれました。一つずつ丁寧にご覧下さるので、お声をかけ、初めて洋二郎作品を観て頂いたことを知りました。

 「こんなに絵に集中して観たのは、久しぶりです」

 そう語っておられました。


《幻想的風景》1943年油彩


 画家の藤山ハンさんは、1993年いのは画廊展以来、欠かさず洋二郎展を訪れてくれました。今回は2度会場に足を運んでくださいました。

 『眼の光』(土曜美術社)に「双星」(p193)と題した文章が載っています。是非ご覧ください。

 また、『カドミューム・イエローとプルッシャン・ブリュー』にも「黒猫化身―島村洋二郎へのモノローグ」という文章が載っています(142頁)。

 ハンさん自身がゴッホの信奉者であり、ゴッホの墓参りにも出かけている方です。

 ハンさんは、今回の展示が、会場にもぴったり合っていて素晴らしいと、褒めてくださいました。


藤山ハンさん。《猫と少年》の前で


朝日新聞の展覧会案内に掲載される


 7月4日の朝日新聞に展覧会案内が掲載されました。今回新しく発見された作品《横顔の女》もカラーで載りました。

 その案内を見て、画廊に来てくれたのは、何人かの友人たちでした。

 そのうちのSさんは、現代画廊、いのは画廊で見てくれた後、連絡が途絶えてしまい、今回のお知らせも送ることは叶わなかったのです。けれど、彼女は、朝日新聞を見てくれ、画廊に駆けつけてくれたのでした。

 お嬢さんも一緒でした。

 展覧会が終わってしばらくして、お嬢さんからメールが届きました。



 先日はうれしい再会でした。…ここ数年は体調を崩しやすく、もう都心には行けないと諦めていた母の心が動き、魔法のように元気にしていただきました、

 その後も購入した画集を読み「すごいすごい」と言って、毎日のように話題に上がっていますよ。


 私の20代前半までの記憶は断片的で少なめです。それでも洋二郎さんの絵はしっかり覚えています。目に焼き付いたコントラストとしては暗い記憶と明るい記憶がありました。なぜ二種類の記憶があるのだろうと思っていましたら、私は1993年に神保町(いのは画廊)でもお会いしていましたね。思い出すのに時間がかってしまいました。30年前ですね。

 1987年(現代画廊)の記憶が暗く、1993年の記憶が明るいのです。

 私はどちらの記憶の絵にも同じ温度で何か親しみを感じます。

 私は小学生ごろまで、大人の言うことは絶対で良い子であらねばならないという思い込みに、がんじがらめになって窮屈な子ども時代を過ごしました。

 そんな私がやっと外に目を向けられるようになった時、洋二郎さんの絵と出会って絵の中の一人一人に人間らしさを感じてホッとしたのだと思います。これは今回銀座(枝香庵)で感じたことで今現在の解釈ですが。

 私はその後も人物画は他に好んで見ることはないので、説明できない何かがあるのだと思います。

 絵との再会と直子さんとの再会に、私もとても元気をもらいました。・・・・


Sさん母、娘


 なんと嬉しい出会いだったことでしょう。

 お二人の素晴らしい笑顔に何度も見入ってしまう私です。

 今まで生きて来て、よかった。


8日土曜日、ギターライブ


 ストリートミュージシャンのカズさんのライブは、8日午後でした。練習中は会場の出入りが自由でしたので、作品を観ながら演奏に耳傾ける方もいました。

 本番は素晴らしい時間でした。

 マイクなしでギターを弾き、歌うカズさん。演奏に耳傾ける参加者。ときおり入るカズさんの語りに頷く人もいて、それぞれ自分の来し方を振り返っているような気配も感じられました。

 「一期一会」というのは、こういう時を指す言葉なのだと、改めて思いました。

 カズさんを取り囲むように飾られている作品が、絵から動き出して演奏を聴いているようだったと、伝えてくれた方もいました。

 カズさん、ありがとうございました。


                          *参加費は「国境なき医師団」に寄付させて頂きました。


2024年の展示は?


 先ほど登場した藤山ハンさんが、来年2024年1月19日~28日個展を開きます。ハンさんによると、人生最後の個展となるそうです。

 実は、ハンさんから、その個展会場に、「島村洋二郎特別出品」として、14,5点飾ってほしいとのお話がありました。

 1993年いのは画廊展で洋二郎作品に触れ、以来、よき理解者として、常に作品展会場に足を運び続けてくれた藤山ハンさん。そのハンさんの個展会場に、ハンさんの作品と共に洋二郎作品が展示できるというのです。思いがけない申し出に、私は大変驚きました。

 と同時に、会場となる、新宿東口のギャラリー絵夢の場所が、ヴェルテル喫茶店(洋二郎が最後にクレパス画個展を開いたところ。映画館武蔵野館のすぐ近くだった。)と徒歩1,2分の場所だということに気が付き、胸が震えました。


 今私は、大きな期待を持って、準備を進めています。

 一体、どんな空間が誕生するのでしょう。


藤山ハンー小さな回顧展:島村洋二郎特別出品

時 2024年1月19日~28日

所 新宿駅東口 ギャラリー絵夢


 是非、来年1月、新宿駅東口のギャラリー絵夢に、藤山ハンさんと洋二郎の作品を観にいらしてください。


(島村直子)

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