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 甕星6号に「島村洋二郎と出会って」という題で掲載して頂いたので、画家・島村洋二郎に目を止めて下さった方が居られるかもしれませんね。この本は、その島村洋二郎についてまとめた、最新研究書です。

 昨年暮れに上梓された前後のことを少し書かせて頂きます。



 4月9日付けの図書新聞には、平井倫行氏の書評が掲載されました。

 丁寧に読み込み、画家にまつわる物語ではなく、絵そのものに、今こそ向き合う時なのだというメッセージが伝わってきました。小寺氏の仕事の重要性にも触れており、これからこの本を通じて洋二郎作品に興味を持ってくださる方がきっと現れると思わせてくれる書評でした。


 実は10年過ぎていました

 

 2009年、『眼の光 画家・島村洋二郎』(土曜美術社)を上梓した折に、頁数の関係で掲載できなかった資料をまとめておきたいと、一人で企画を立てたのは、2010年のことでした。

 その後、2012年母を見送り、翌年、柏で洋二郎の没後六十年展を三日間だけ開き、2015年には洋二郎の映画が出来上がり、次の年には、生誕百年の集いを開いたりしていく中で、少しずつ資料を整えて行きました。

 本の構成は、最終的に、当初考えていたものとはすっかり変わりました。2020年までは、展覧会のチラシやDMに掲載したもの、新聞に掲載したもの、手紙類等というような分類で章を立てていました。ところがその方法では、流れが掴みにくいことに気が付き、展覧会ごとにまとめてみたのです。

 しかし、出版社とはなかなか出会えず、未知谷と出会えたのは、2021年に入ってからでした。未知谷の飯島氏は、2011年キッドアイラック展から洋二郎展を見に来て下さり、詩画集『無限に悲しく 無限に美しく』(コールサック社)も高く評価して下さっていたのです。

 そして10年以上過ぎても出版することができたのは、資料の掲載を快諾して下さった方々、展覧会のたびに駆けつけて下さった皆さん、様々なアドバイスを授けて下さった方々のお蔭もあるのだと、今改めて感謝の気持ちで思い返しています。


 小寺瑛広氏と出会う


 小寺瑛広氏と初めてお会いしたのは、2015年7月、映画「島村洋二郎の眼差し」完成上映会の会場でした。徳川昭武の研究に携わっておられる方が、洋二郎の作品に興味を持たれたことが少し不思議な気がしつつも、若い方に作品や映画を見て頂けることが、とても嬉しかったことを覚えています。

 そして、小寺氏は、2016年、宮城道雄記念館での「生誕百年の集い」にも参加くださったのです。ちょうどその頃、祖父が残した手書きの自叙伝の入力も進めていた私は、困っていた事を相談しました。筆で書かれた文字の読み取りが難しくて、特定できないものがいくつもあったのです。すると小寺氏は「読みやすい字ですよ。原本をコピーしてくれれば、読み取れなかった字を赤で入力しますよ」と、申し出て下さったのです。有難いお申し出に感謝しながら作業を進めて行きました。

 そのやり取りの中で、洋二郎の資料をまとめておきたいので、入力作業をしていることもお話しました。そして、その本に、洋二郎について書いて下さることになりました。その時は、こんなに本格的な「洋二郎総論」となるとは、予想していませんでした。

 小寺さん、未来につながる仕事を、ありがとうございました。


 出来上がった本


 12月17日、製本所から本が届くと知り、私は未知谷へ出向きました。トーランスに住む洋二郎の二男・テリーと、モントレーに住むテリーの養母かね子さんに一日でも早く本を届けたかったからです。

 製本所から届いた本の匂いと手触り、そして重さ。大切に作って頂いたことが伝わって来る瞬間を十分に味わう間もなく、それぞれ小さな手紙を付けて包むと、近くの郵便局へ。届くのは、クリスマス過ぎると言われましたが、コロナ禍中では仕方ありません。

 都内の書店には、ジュンク堂、丸善他に、数日後入荷すると未知谷でお聞きし、私はとても楽しみにしていました。

 神田東京堂には翌日並ぶと知ったFさんは、早速ランチタイムに駆けつけてくれました。まだ並べる前だったそうです。そして、その日の午後には、散歩のついでに立ち寄ったHさんが東京堂の平台に置かれた本を「お~、とうとう出たか!」と、購入してくれたのでした。


                  東京堂書店で


 この本が、洋二郎作品に興味を持った方の役に立つことを願ってやみません。


 作品展を


 「作品展を開いて欲しい」という声が、出版を終えると、届いてきました。開きたいです。・・・でも今年は厳しいかな?と、他の方が企画して下さることに、感謝しながら協力させて頂いています。

 2022年は、まず初めに、3月21日に共編・著者小寺瑛広氏の講演会が松戸市民会館で開かれました。松戸市民劇団の主催で、80人ほどの参加者の眼差しの中、小寺氏の洋二郎に対する熱意溢れる講演となりました。作品も会場に並べました。《黒いベールの女》《緑色の首飾りの女》《横顔の男》《猫と少年》《婦人像(オレンジ)》の5点です。

 次は、5月13日、アートギャラリー884で、すかがわ短編映画祭アーカイブ展が開かれ、洋二郎の映画も上映されたのです。この映画は、2015年に完成した作品で、翌年第28回すかがわ短編映画祭で上映されたものです。洋二郎の作品も《黒いベールの女》《女の顔》の2点が展示されました。

 そして、この秋10月には、池之端画廊で、里見勝蔵を巡る画家の三人展(荒井龍男、熊谷登久平、島村洋二郎)が企画されています。板倉鼎・須美子の画業を伝える会の代表理事・会長M氏の企画です。里見勝蔵と洋二郎の作品が並ぶのは初めてのことです。どんな展示になるのでしょうか。


              3月21日小寺瑛広氏講演会会場


             《黒いベールの女》講演会会場で


                会場に飾られた作品


これからのこと


 洋二郎作品は、空襲と大火であらかた燃えてしまいました。ですから、市場に出ることもほとんどありません。

 今回の本のあとがきの中に、私が紛失してしまった《君子像》をどこかで見かけることがあれば、ご一報くださいと書きました。「《君子像》は力のある作品なので、拾った方が大切にしてくれているから心配無用」と慰めてくれる人もいます。破かれたり、捨てられたりしていなければ、どこかの部屋に飾られているなら、私はそれでも良いのです。絵画作品というのは、飾られて毎日のように眼差しを注がれてこそだと思うからです。それでも、もし古美術商に売りに出されることがあれば、気が付かれた方、どうぞご一報ください。


              《君子像》1951~53 クレパス


 私は、洋二郎の作品展を公立の美術館で開けたらという願いを、まだ持ち続けています。美術館にとっては、無名の画家の作品展など無謀な行為でしょうか?今まで埋もれていた作品に光を当て、世に問うことも、美術館の大切な仕事の一つではないでしょうか。

 先日、東京ステーションギャラリーでの企画展を拝見し、藤田龍児という画家の作品に初めて出合いました。あまりの色の美しさに圧倒され、この作品展を企画したステーションギャラリーの見識に瞠目しました。と同時にその企画力に敬意を表したいと思いました。


 まだ洋二郎作品と出合っていない方の為にも、2023年には、島村洋二郎展を開く心づもりでおります。その折には、是非、足をお運びくださいませ。


(島村直子)









 





 以前友人とこのような話をした。世界が詩人で溢れたら戦争は無くなるのではないだろうか。私はなぜそう答えたかは分からないが、戦争が無くなる代わりに、皆が世界の美しい終わりを夢想するのではないかと答えた。世界の終わり。世界の終わり。時折このようなイメージを抱くことがある。人はひとりも存在せず、青黒い海が雄弁な沈黙を持って横たわり、私どもが住んでいた住居や街がただオブジェのように残されて、眠りの生を生きているのだ。そして我々の記憶と影だけが持ち主を失って、あたりを逍遙している。寂しく清潔で、詩が無人の中からは生まれて消えてゆく。その儚さのなんと美しいことだろうと。世界の終わりという言葉には、甘美な輝きも宿っている。欲望や感傷や死からも解き放たれた、誰も見ることのできない夢が存在しているのだ。我々はもしかしたら、誰もが世界が終わってしまえばいいという願望を抱いているのではなかろうか。

 新型コロナウイルスの影響で“日常”は確かに変わり、そして暗愚な権力は蔓延ったまま、だがそれでも“日常”は続いていく。壊れることなく続いていく時間にうんざりするも、だが我々は生きてゆかなければならない。だが、大勢の人間に共通する問題、災難よりも大きく自分の中で世界を変えてしまう出来事だってある。それは失恋かもしれない、親しい人の死かもしれない。ここで世界が終わった、と呟いてしまうほどの哀しみや欠乏感。この映画『スターフィッシュ』は世界の終わりの映画である。音楽しか無くなった地球での、世界の終わりの映画なのだ。

 主人公は親友グレイスを亡くした女性、オーブリー。彼女の家に忍び込んだオーブリーだが、葬儀の翌朝起きると町からは人が姿を消して一変しているうえに、怪物が外を彷徨っている(怪物の造形はサイレント・ヒルを参考にしたそうで、なんともグロテスクで見応えがある)。他にも生存者がおり、オーブリーに無線で連絡がある。グレイスが残したメッセージによれば、街のあちこちに隠したミックステープに世界の変貌の秘密があるようだ。オーブリーはひとり覚悟を決めて怪物が蠢く街に飛び出してゆく...

 主人公を演じるヴァージニア・ガードナーはほぼ全編ひとりのみの出演だが、狼狽しつつもどこか諦め、ガラスの向こう側から何もかもが崩壊している様を眺める若い女性の役を、排他的な魅力を滲ませたクールな美貌と共に見事に演じ切っている。もうひとつの主役は音楽であり、「何年も会えていないけれど 君の葬式ならどこからでも飛んでいくよ」と、WHY?やシガーロスなどの名曲に合わせて綴られる内界/外界の風景は独創的で美しい。『スターフィッシュ』はひとりの女性のたった数日間を“世界の終わり”に設置し、恐ろしい怪物からアニメーション、彼女の意識を砂漠から海辺をも彷徨わせ、内側で生まれた綻びと心の穴ぼこから、それでも無限に宇宙が広がってゆくことをイマジネーションの奔流で魅せる大胆な詩である。

 世界が終わるというのは、欠落感と強烈な虚無を抱えた人間にとって、究極の救済だ。オーブリーは親友を失い、彼女という海を失ったのだ。愛する友人と共に過ごす時間は、交わす言葉は、体をめぐる血を熱くし生命の喜びをもたらす。愛する人、愛する友人の死は海が枯渇することに等しい。オーブリーは親友が残した家で、言葉で、音楽で命を繋ぎ止めるが、それでも血が/食物が足りなくなったからには、スターフィッシュ/ひとでのように、胃袋を引っ張り出して世界を飲み込まなければならない/対峙しなくてはならないのである。かつて人が皆いなくなればいいのにと願ったことのある彼女が見る世界は、恐れも虚無もしんと静まりかえった、涙も凍った雪の降る世界だ。

 随所に挟み込まれる回想シーンから、オーブリーは親友グレイスに解決することのできなかった心疚しい気持ちがあるようだが、はっきりと明確にされることはない。許して、忘れよう。本作は最後まで、世界は滅びたのか、彼女の心境もまた、曖昧なままに終わってゆく。だが、<異形の扉>が開かれた場所に向かってゆくオーブリーの姿は、世界の終わりが迫る中でひとり月と呼応し、メランコリックで官能的な姿を見せた『メランコリア』のキルスティン・ダンストを想起させる、異質な花嫁のようである。一度決定的なもの――決定的な愛――自らの海を失ってしまったら、許されたとて、解決されたとて、戻れる場所があるとは限らないのだ。そんなふうに切ないままの“救済”を鳴らす本作は、とてもやさしい。人は“容赦しない”想像力によって、傷をそのままに見つめることも、癒しの過程を見つめることも、傷口に宇宙を見出すことだってできるのだ。

 世界の終わり。世界の終わりで聞く旋律は何だろう。世界の終わりで思い出すのは、見つめたいのは、どの記憶だろう。恐竜が滅びゆく時に見た景色は、どのようなものだろう。終わってしまった世界で聞こえてくる音色はどのようなものだろう。『スターフィッシュ』は今日も美しい夢を思い描き、世界の涯への旅を続ける詩人たちにとって、特別な一本になる。


(和泉萌香)


 ――それぞれのショットに使われている時間を通し、見る人に身体的な体験をしてもらいたい。時間があなたの中で展開され、時間があなたの中に入ってくるという、身体的な経験をするために。


                          シャンタル・アケルマン


 牢獄は鉄柵なしに存在する。拷問は猛毒や鞭なしに存在する。絶望は、緩やかな波のリズムで、もしくは毎日の洗顔のスピード・・・洗剤の減り具合・・・湯を沸かす間隔・・・小銭を数える間隔・・・でやってくる。絶望、失望、絶叫にならないそれは日々彼女たちによって飲み込まれている。見えない鉄条網に、縄に、絡めとられている彼女たちの分泌物は私どもに様々な形で傷跡をのこすものだ。

 1932年、後にフランス映画で活躍し高い評価を受けることになる俳優、デルフィーヌ・セイリグはレバノンのベイルートで生まれた。スクリーンデビューを飾ったアラン・レネ監督『去年マリエンバートで』での役柄名はA、であった。匿名性の役でデビューしたこの女性はすらりとしなやかで、モノクロームの絵の中ではその物憂げな高貴さが際立ち、ふさふさとした豪奢な衣装に身を纏えど卑しさは廃棄され、血が通っていることも思わせない。それは決してマネキンと同義の女の冷たさでは無く、彼女だけが持つ「世界の涯」に似た魅力なのだ。この女性、デルフィーヌ・セイリグという女性はあまりに浮世離れした美貌を持っているのが理由のひとつか、人間ではない役柄や夢とも現とも分からない場所に出現する役柄を多く演じている。ジョゼフ・ロージー監督『できごと』では主人公の元妻として画面に現れるが台詞はオフの声でしか無く、彼女が実在し、主人公と逢瀬を交わしたか疑わしいほど神秘的だ。ジャック・ドゥミ監督『ロバと王女』では妖精役、ハリー・クメール監督『赤い唇』ではエレガントな伯爵夫人/ヴァンパイア役だ。マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』では大使夫人のアンヌ=マリー・ストレッテルを演じるが、こちらも白昼夢の中に生きながらえるように、亡霊のようにあくまでも曖昧に姿を現すが、彼女は強烈である。絶対に彼女でなかったら、物語はいけなかったと誰もが思うだろう。デルフィーヌ・セイリグは迷い人や時を超越可能な人物がお似合い、独身者にとっての花嫁であり、そして血が通い柔い肌を持った確かな人間であり、彼女が演じることによってその役柄は誰への承認も哀れみも必要としなくなるのである。また、彼女は性差別に強く抗議し、自らビデオカメラを手にとって女性たちの声を記録し訴えかけた不屈のフェミニストだった。

 シャンタル・アケルマン監督の『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23 番地 、ジャンヌ・ディエルマン』はとてもユニークだ。だがこれを見終わった後には、これが映画がもたらす美しさ、恐ろしさの到達点のひとつだと唸り、瀟洒なインテリアで彩られながらも隠せない、空間の息苦しさと痛ましさに震えるだろう。描かれるのは主婦、ジャンヌ・ディエルマンの日常三日間だ。未亡人の妻であり母親であるこの女は台所にたち、バスタブにしゃがみ込んで体を洗い、息子のために食事の準備をし、寝る場所を整えてやり、昼間は生活のために体を売り客をとる。肉の下ごしらえ、じゃがいもの下ごしらえ。買い物、朝のルーティーン、夜のルーティーン、料理、料理。衣服を着替える時間やヒールに足をいれる時間。この儀式のような日常に彼女は突如、爆弾を放つ。火を放つ。私どもが誰も読み取れないような表情とともにだ。執拗に日常、反復する日常を描き出し、一瞬でハサミで平凡な日々を裁ってしまう。映画という媒体を使い、アケルマン監督はひとりの女性の孤独と葛藤と静かな爆発とを、ほぼ「日常の中での身振り手振り」だけで描き出したのだ。三時間半近くを主婦、ジャンヌ・ディエルマンと過ごすことで私たちは共に息を詰まらせ、ささくれがゆっくりと増えてゆき、冒頭に紹介したアケルマンの言葉通り、時間が肉体に流れ込んでゆくのを実感することになる。何て重く恐ろしいのだ、一日という時間は何て長く恐ろしいのだと、真綿で首を眼を締められる思いになりながら。

 アケルマン監督の所持作『街をぶっ飛ばせ』では、アケルマン演じるひとりの女性が台所で料理をした後狂騒的に動き出し、台所器具を散らかした挙句、花束を手にコンロの上に丸くなって爆発音と共に物語が終わってゆく。共通するのは家/台所という場所に縛られている(ように見える)女性たち、女性像の破壊だ。『街を~』はヒロインの死が最後にあるも、画面が暗くなってから再び聞こえてくる女性の明るい歌声により突拍子もなく軽快な余韻を残すが、一方『ジャンヌ・ディエルマン』では彼女の「爆発」が起こった後、セイリグ演じる彼女がひとり複雑な表情を浮かべたまま、薄暗いリビングで座っている陰鬱な色の場面で終わってしまう。ぶっ飛ばせ、と言った女性はもう映画の中にしか――世界がもうアケルマン監督を喪失している――ひとりの才能に溢れる、大胆で美しく、聡明な女性はもう、いないのだ。その事実が悲しく胸に迫る。

 最後にかけて悲痛な迫力に溢れる『ジャンヌ・ディエルマン』だが、彼女のルーティーン描写はリズミカルな印象をあたえ、官能に満ちていることも事実だ。包丁の音、生肉と触れ合うパン粉、靴を磨く音、蛇口から垂れる水音、彼女の靴音がアンサンブルを奏で、デルフィーヌ・セイリグの優雅な身のこなしと気高く伸びた首筋、くるくると動き回る様はひとつの舞踏を見ているかのようである。反日常と日常が隣り合わせの、柵の無い牢獄/現代に生きる我々は、このフェミニストたちが作り上げた『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23 番地 、ジャンヌ・ディエルマン』の無比の蠱惑と中毒と、シャンタル・アケルマンが遺した素晴らしい映画たちを観る権利を行使し、思考しようではないか。


(和泉萌香)

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