三人展の企画
里見勝蔵(1895~1981)を巡る三人の画家、熊谷登久平(1901~1968)、荒井龍男(1904~1955)、島村洋二郎(1916~1953)の作品を集めて、池之端画廊で10月に三人展をやりませんかと、水谷嘉弘さん(一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会代表理事)から電話がかかって来たのは、今年の3月上旬でした。他の二人の作品所蔵者(熊谷明子さん、野原宏さん)からは承諾を得ているとのこと。搬入搬出などの心配も不要とのことで、了解しました。
水谷さんが、小寺瑛広さんの講演会会場で、三人展の告知をしたいとのことで、主催者に頼み、時間を取って頂きました。
そして、紆余曲折はありながらも、三人展への準備は進んで行ったのでした。
会期は、池之端画廊主鈴木英之氏のご厚意で、10月12日(水)~30日(日)(月曜、火曜は休み)と決まり、一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会の協賛を得て、チラシも出来上がりました。
三人展初日 池之端画廊
三人の画家について少し
・熊谷登久平(1901~1968)
岩手県一関千厩の豪商の家に生まれた登久平は、画家を志して上京してからの苦労はあったものの、二科展に入選してからは実家からの援助も潤沢で、絵を描き続けました。
熊谷登久平の二男寿郎さんの妻明子さんは、6年前寿郎氏と結婚されてから熊谷登久平の作品の顕彰活動を始めた、稀に見る方です。ブログは、ほぼ毎日更新し、作品の整理にも意欲的です。ブログを読めば、彼女の意欲的な活動が良く分かります。ご覧ください。
また、明子さんは、今回の三人展会場の池之端画廊で、昨年「熊谷登久平展」を開いています。
57歳で二男を授かった登久平が「子どもにも分かる絵を」と描いたのが、《ねこ・じゅうたん・かがみ・ 裸女》だと明子さんが教えてくれました。明るく温かな色使い。伸びやかに横たわる裸婦の友だちのように黒猫は寝そべっています。この作品以降、登久平の画風は変わり、登久平らしさが出たと評されました。
《ねこ・じゅうたん・かがみ・裸女》1956年 油彩
登久平は、長谷川利行と一緒に、当時池之端画廊のある場所からほど近い彩美堂で、二人展を催し、そこへ現れた里見勝蔵と意気投合します。そして里見の家まで出かけたそうです。そして利行と登久平は、一晩で一升瓶を3本空けてしまいます。里見は以後二人に酒を供することは無かったとのこと。
画廊での明子さんの話は、面白くて、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
そういえば、洋二郎は第15回白日会展に《少女B》を出品し、その作品は第13室に展示されました。
その時登久平は、審査員をしていたと、明子さんから教えてもらいました。
登久平と洋二郎が繋がった瞬間です。
・荒井龍男(1905~1955)
荒井作品は、コレクターで、「わの会」創設者でもある野原宏さんが出品しました。
展覧会初日、夫人と共に来廊され、その話ぶりは実に穏やかでした。
荒井龍男は、ソウルから里見勝蔵に葉書を出しているのですが、その中で里見に頼みごとをしています。
「渡欧出発は十月初旬の予定ですが 何か巴里での便宜をお授けゐただければと存じますけれど・・・シャガールへのご紹介頂けませんでせうか。其の他何かいいお考へでも御座いましたら、どうか後進の為に道をお開きください。 ―昭和9.9.15消印―」
実際里見勝蔵が荒井龍男にシャガールへの紹介をしたのかどうか、定かではないようですが、文面からは、里見勝蔵が後輩から慕われていた事が読み取れます。
帰国後、1937年、彼は自由美術家協会の創立に参画し、作品を発表し続けます。
しかし、戦後、自由美術を退会して、同志と共に1950年モダンアート協会を設立し、会員になります。
アメリカやブラジル等で何度か個展も開きます。
そして帰国後7月にはブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館)で個展を開くのです。
その個展終了後に受けた手術の後、急逝。 51歳でした。
《ボードレールの碑》1934年 油彩
荒井龍男はボードレールの墓を描き、洋二郎はボードレールの詩を愛唱していました。
二人がどこかで出会っていた可能性は?
ボードレールが単に当時の流行だった、ということではないように思えます。
洋二郎の友人で画家の勝呂忠は、モダンアート協会の設立準備に、山口薫、小松義雄らの勧めにより参加しています。会員になるのは勝呂が明治大学を中退した年1952年です(『日本美術年鑑』昭和31年版p154)。
勝呂忠と洋二郎との繋がりから、洋二郎と荒井龍男が出会っている可能性は、全く否定し去ることは出来ないのではないでしょうか。
一方で1951年の第15回自由美術展に洋二郎は出品・入選しているのです。
・島村洋二郎(1916~1953)
《桃と葡萄》1938~39年頃 油彩
三人の中で一番若い洋二郎は、1935年画家を志し旧制浦和高校を退学、里見勝蔵のアトリエ(杉並区井荻)に通い始めました。
この《桃と葡萄》は里見に師事していた頃に描かれた作品で、強く師の影響が感じられます。
同時に、絵を描く喜びや、洋二郎の若々しさ等が伝わってくる作品ではないでしょうか。
この《桃と葡萄》は、私が所属している梅野記念絵画館友の会が主催する「私の愛する一点展」第20回(2021年6月5日~7月28日)に出品しました。
その折の反響は届いてきませんでしたが、今回の三人展では、「《桃と葡萄》から、あたたかさ、力強さを感じてきました」というメールを頂きました。
この「私の愛する一点展」は、友の会の会員が、所蔵する作品を一点、コメントを付記して出品するという展覧会です。出品作品の図録も作成されています。
発案者は初代館長梅野隆さん。スタートしてから20年以上が経過しています。
2023年度は、6月25日~8月28日 に開催される予定です。
しなの鉄道滋野駅または田中駅で下車、タクシーで10分ほど登った芸術村公園の中にある美術館です。時の流れ方が、下界とは全く違う別天地です。
梅野記念絵画館 https://www.umenokinen.com
梅野記念絵画館ロビーから雪の浅間山を望んで(信州とうみ観光協会提供)
・里見勝蔵(1895~1981)
生涯で2度パリへ渡り、ヴラマンクに学び、日本にフォーヴィスムを紹介した画家として知られています。
里見勝蔵=フォーヴィスム という図しか思い浮かばない私でしたが、今回、会場へいらして下さった美術評論家・瀧悌三さんから、「フォーヴィスムでくくることが出来るのは、1905年をピークとした、数年間ですよ」と教えて頂き、里見がヴラマンクに出会ったのは、1921年だと、思い出しました。
今回、瀧悌三さんの言葉から、「里見勝蔵展」(目黒区美術館)、『ヴラマンク・里見勝蔵・佐伯祐三展』(安田火災東郷青児美術館、現SOMPO美術館)の図録を引っ張り出して見てみました。
もしかすると、洋二郎が里見勝蔵から受けた影響は、私が思っていたよりも、ずっと大きいものだったのかもしれません。
画廊2階風景
出品者と出会う
会場で、《猫と少年》を熱心に観る女性がいたので、つい声掛けしてしまいました。すると、その方は、里見勝蔵作品を3点出品された方と分かりました。彼女は「私、強い絵が好きなんです。」と言い、2階に展示した油彩の自画像《菫の花を持った自画像》も好きだとのこと。彼女は、祖父から里見勝蔵作品3点を受け継ぎ、今回の展覧会に出品してくれたことも分かりました。なぜ里見作品をそんなに持っておられたのだろうと聞いてみると、彼女の祖父は、里見に絵を習っていたとのことでした。
そして、会期後半に、二人連れの女性が、彼女に勧められて会場を訪れたのですが、なんと、このお二人もお孫さんで、里見作品をお持ちとのこと。明子さんや画廊主鈴木夫妻もその場にいて、大いに盛り上がりました。
《ルイユの家》 1960年 油彩
画廊での初めての出会い
画廊に居ても、意外と声を掛けられることは少ないものなのですが、最終日に私は一人の男性から声を掛けられました。
坂井さんという方でした。私はそこで、彼の記憶力に敬服します。
実は、坂井さんは、1987年、現代画廊での洋二郎展を観ておられたのです。
そして、新聞記事に三人展の記事が掲載(東京新聞10月20日朝刊)されると、そこに洋二郎の名前を見つけ、画廊に来て下さったのです。
35年も前の洋二郎展を覚えていて、駆けつけて下さったのです。
青い色が忘れられないと、伝えてくれました。
芸大の卒業生で現在いわき市にお住まいの山本さんが、作品を見終わったときのことでした。
「熊谷登久平と島村洋二郎はデッサン力がありますね」と、話し始め、「展示も素晴らしい」と言ってくれたのです。
率直なその言葉に、居合わせた熊谷明子さんと私は、嬉しさを感じ、さらに話が弾んだのです。
画廊に置いて頂いた、洋二郎の詩画集『無限に悲しく 無限に美しく』の表紙に惹かれて、即購入して下さった画家もいました。その表紙に使われていたのは、《忘れられない女(ひと)》という作品でした。
『無限に悲しく 無限に美しく』(コールサック社)
エコールドパリの空気を感じる
「安川先生が巴里で暮らしておられた頃のエコールドパリの空気が感じられますね」と会場を見回し伝えてくれたのは、ピアニストの松野健史さん。
松野さんは、小学生の時、安川加寿子のピアノ演奏をレコードで耳にして「この人にピアノを習いたい!」と叫んだという。その後、彼は安川加寿子の弟子となり、映像、CD等で安川さんの演奏を再現することにずっと携わって来られました。
今回その集大成とも言えるCDが発売されたとのこと。今年は、安川加寿子の生誕百年で4月にはイベントもありました。
早速聴いてみました。
まるで真珠の球を転がしているように一音一音が美しく輝く演奏なのです。
ピアノ演奏に興味をお持ちの方は、是非一度聴いて頂きたい。
安川加寿子の住まいには、夫君定男さんが洋二郎から購入した《黒いベールの女》がずっと飾られていました。
《黒いベールの女》1956年頃クレパス
会期中届いた葉書
「前略
本日(10月19日)池之端画廊へ行ってきました。
里見勝蔵を中心とした四人展は、実に良い展覧でした。
洋二郎氏の作品も他の三人の作品と響き合って、
生き生きと輝いて見えました。
絵を見る喜びが、小生の心を一杯にして。
この展覧会のことをお知らせ下って、感謝いたします。」
大川公一さんから届いたこの葉書は、読み終わった私の心を、温かく包んでくれました。
画廊風景
俳句も生まれる
画廊に来てくれた入江杏さんと、夕方蕎麦屋へ。彼女の俳句の師匠もご一緒です。
師匠はとても愉快な方でした。
蕎麦屋に行く道すがら、細い三日月がきれいでした。
その翌日のFBに彼女の句が。
「冬三日月 街に日常非日常」
22日には、ストリートミュージシャンの山田さん(仮名)が来てくれました。
自作の歌を画廊でギター演奏してくれたのです。
ギターの音色が画廊に響き、至福のひととき。
歌詞は胸に響きます。
ライブ最高!!
お客様は10名。
13歳から80歳まで多彩な顔ぶれです。
洋二郎も喜んでいたことでしょう。
画廊で演奏する山田さん
Yさんに感動しまして、
「澄む秋や 画廊の詩人 弾き語る」 茂木りん
と、参加していた友人がFB句会に投稿。
俳句でその瞬間を切り取れるって、素敵ですね。
『月刊ギャラリー』11月号 「炎の人」の記事
10月30日、最終日。
10月31日に作品が家に戻りました。
玄関に置いたまま、梱包を解けずにボーッと日を送っていたある日、『月刊ギャラリー』11月号が届きました。
たまたま開いたページには、劇団文化座公演『炎の人』(作 三好十郎)の記事。
2023年1月俳優座劇場で上演予定とあります。
思わず読み進むと、何十年も昔、滝沢修が演じるゴッホを観たことが蘇ってきました。
ゴッホの苦しみにフォーカスした演技に圧倒され、息苦しかったことも。
しかし、今回の若いゴッホは、希望についても語ると書かれていました。
ゴッホの膨大な手紙の中から、一粒の麦の運命を受容したゴッホの思いを、願いを汲み取った演出家、役者の強い意志に思いを馳せずにはいられません。
洋二郎の晩年の思いに通じるものがあるのではないでしょうか。
この一年を振り返ってみれば、
2021年12月『カドミューム・イェローとプルッシャン・ブリュー』が未知谷から上梓されました。
翌2022年、3月松戸市でコロナ禍中にもかかわらず、100人近いお客様をお迎えして、小寺瑛広さんが洋二郎の作品についての講演をしました。
その後、10月12日~30日、池之端画廊で、今回の「里見勝蔵を巡る三人の画家たち展」が開かれたのです。
「コロナ禍だからこそ、洋二郎の作品を見てみたい」というお声がいくつか届く中、2回のイベントが開けたことを大変ありがたく思っております。
そして、御参加、御来廊下さった皆様が、作品と語り合って下さったことにも、御礼申し上げます。
4年ぶりの展覧会で色々心配もありましたが、画廊主鈴木夫妻の誠実な運営で沢山のお客様に喜んで頂けました。
また、今回の出品者の方々(明子さん、野原さん、Tさん)とも近しくお話が出来、来廊された方々のお話に耳傾け、これからのことに思いを馳せることも出来ました。
企画して下さった水谷さんにも御礼申し上げます。
ありがとうございました。
展覧会初日
2023年の洋二郎展
来年2023年7月1日(土)から11日(火)まで、銀座枝香庵で洋二郎の没後七十年展が開かれる予定です。
銀座では、1956年サトウ画廊で、1987年現代画廊で洋二郎展が開かれています。
3回目の銀座で、洋二郎作品は、どのような方々とどのような出逢いが出来るのでしょうか。
来年の御予定に書きこんで頂けましたら幸いです。
近づいて来ましたら、改めて告知させて頂きます。
来年は、地球にとって穏やかな日々でありますように。
(島村直子)