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更新日:2022年11月1日



 松田修資料アーカイブ事業を始めて以降、松田修本人と交流のあった当事者への接触も続けられており、とくに『甕星』編集主幹である平井倫行氏によって、笠井叡氏(天使館)や、麿赤兒氏(大駱駝艦主宰)へのインタビューが行われている。さらに、室伏鴻(1947-2015)に学んだ山田有浩氏による舞踏論など、一連のドキュメントは『甕星』6号(特集舞踏)に詳しい。

 また、本人による寄稿は実現しなかったが、平井氏は最晩年の須永朝彦(1946-2021)と交流を持ち、それは「須永朝彦の紋章学 歌川国芳《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》と辻惟雄『奇想の系譜』を中心に」(1)として結実した。

 その一方で、これまたよくあることながら、「間に合わなかった」ケースの一つが、冒頭の宮谷である。宮谷と松田修はある時期、家族の近況を伝えるような交流をしていたことが、松田修資料から明らかになった。整理担当者として、また「日本近代文化史」研究者として、資料の紹介とともに、簡単な位置づけを試みたいと思う。


 現時点(2022年8月)で確認できる宮谷一彦関係資料は、以下の通りである。


0.封筒「宮谷一彦 “スーパーバイキング” 1982~1983 ヤングジャンプ連載」

1.松田修宛宮谷一彦書簡13枚 1984年1月頃、および同封筒「宮谷一彦資料」

2.コピー「性触記」(COM増刊号)1971年 虫プロ刊、あとがき、インタビュー(昭和46年6月3日記)pp.262-263

3.コピー 岡崎英生「修羅生誕の経緯」(宮谷一彦『俺たちの季節』解説 1971 三崎書房刊)、

4.コピー 斎藤次郎「俗悪とその誇り―宮谷一彦論」(『共犯の回路』 1973 ブロンズ社発行pp.221-224所収、初出1970)

5.「宮谷一彦インタビュー」『Fusion Product』1980年度決算号 pp.208-209。

6.宮谷一彦著作目録(1967~1982)12枚、「宮谷一彦作品集」(1971~1980)8枚 *直筆


 1.の書簡の内容から、宮谷一彦と松田修の出会いは、1983年頃と思われる。「先日はながい御時間をありがとうございました。先生の暖かくウィットに富んだお話しぶりを待ち望んでおりました」と始まる。夫人にも「向度も繰り返し語ってきかせました」という言葉からも、宮谷が松田へ抱いた親しみの深さを窺わせる。

 「彼女も楽しみに待ちおりました上京を今回は見送り二人共残念な思いで新年をむかえております」「失礼を御許し願いますとともに又の機会に是非とも御目通り下さるようお願いします」とあり、宮谷夫妻の新年の上京に合わせて、松田と会う計画があったようだ。

内容については、現存人物に関するきわめてプライベートな内容も含まれるため、詳細は省くが、宮谷の親族の一青年の5年間にわたる更生物語が写真とともに綴られている。

 1971年、宮谷は大物右翼の長女と駆け落ち結婚をしたとされるが、この書簡に添付された写真からは、岳父とも関係が改善し、家族の交流を持っていた様子が伝わってくる。

「失礼とは思いますが、先生にお目にかかれました喜びの後の稚気と御笑覧願い一見下さいますよう」と結んでいる。


 宮谷一彦の商業誌デビューは雑誌『COM』(2)1967年5月号掲載の「ねむりにつくとき」である。『COM』は手塚治虫が1966年1月に創刊した雑誌で、「まんがエリートのためのまんが専門誌」と銘打ち、虫プロの出版部門であった虫プロ商事から刊行された(3)。同誌は『ガロ』に刺激されて手塚が創刊したこともあり、前衛的な作品が掲載された。また、読者層を男女に限定しなかったため、後に「大泉サロン」を形成する竹宮惠子も同誌でデビューを飾っている(4)。また、いわゆる「トキワ荘伝説」の形成には、同誌に連載された「トキワ荘物語」が一役買っている(5)。


 6の.宮谷一彦著作目録(1967~1982)と「宮谷一彦作品集」(1971~1980)は雑誌掲載作品と作品集(いわゆるコミックス)の一覧で、直筆と思われる。前者は『ヤングジャンプ』1983年1月13日号掲載の「スーパーバイキング」まで、後者は1980年刊行の『人魚伝説』上・下(ブロンズ社)までが記載されており、本人によるドキュメントとして、今後の史料的価値が期待される。


 2.と5.は、1971年と1980年の宮谷のインタビュー記事である。また、3.は2.のインタビュアーでもある編集者岡崎英生(1943-)が『俺たちの季節』の解説文として寄せた宮谷論、4.は教育評論家でもあり、漫画評論家としての顔を持つ斎藤次郎(1939-)による宮谷論である。

 宮谷との交流を得た松田が宮谷一彦論の構想を抱き、その資料として保存・収集していたと思われる。松田修の著作目録を見る限り、それは実現しなかったようだ。膨大なアーカイブの中に眠ったまま、ようやくその存在が明らかになった直後、対象者である宮谷一彦は亡くなった。

 近年、宮谷が活躍した時代も歴史化が進み、研究対象となりつつある。漫画家のいしわじゅんは宮谷を「日本の漫画に大きな影響を与えた人だった」と評し、3人の巨大な変革者として、手塚治虫、宮谷、大友克洋の名を挙げている(6)。その業績の検証は始まったばかりである。“異端の国文学者”と“日本の漫画の変革者”、二人の交流の軌跡が幾何かでもそれに寄与することを願って、擱筆することにしたい。



(1)平井倫行「須永朝彦の紋章学 歌川国芳《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》と辻惟雄『奇想の系譜』を中心に」『ユリイカ』779号 2021.9 青土社発行pp.239-248所収。

(2)澤村修治『日本マンガ全史』 2020.6 平凡社新書pp.187-191。

(3)中川右介『1968年』 2018.9 朝日新書p.134。

(4)中川右介『萩尾望都と竹宮惠子』 2020.3 幻冬舎新書pp.108-128。

(5)中川右介『手塚治虫とトキワ荘』 2021.5 集英社文庫pp.482-508(初出2019)。

(6)いしかわじゅん「漫画を読んだ 時代を追い越す」(『毎日新聞』2022年8月7日朝刊)。



小寺瑛広(日本近代文化史・松田修資料アーカイブ事業学芸担当)



 令和3年(2021)12月21日、私にとって初めての本となる、島村直子氏との共編著『カドミューム・イェローとプルッシャン・ブリュー』が刊行の運びとなった。

 思えば不思議なご縁で成った本である。私は一応(?)文献史学に属する日本近代史/文化史を専門領域としているはずなのだが、日本近代美術史の本を出版してしまった。島村洋二郎という画家じたいがある種の「奇妙な物語」を有しているが、今回の出版の経緯もまた、数奇なドラマ性を帯びている。いささか楽屋オチのような気がしないでもないが、その舞台裏を記録に残しておきたいと思う。


 私が画家・島村洋二郎を知ったのは、2015年6月。たまたま勤務先に洋二郎の甥・宏之氏がいて、「伯父の作品を展示します」というお誘いを頂いたのがきっかけだった。当時の私はようやく日本近代美術史に関心を持ち始めた頃で、当然洋二郎の名前も、師・里見勝蔵の名前すら知らなかった。7月20日に新宿の「ル トリアングル」に足を運び、《忘れられない女(屋根裏のマリア)》など数点を目にしたのが、彼の作品との出会いとなった。この時、宏之氏から姉直子氏を紹介されたが、まさか6年後に共編著を出すことになろうとは、全く想像すらしなかった。

 その後、3度にわたって直子さんの開催する島村洋二郎展で作品を目にする機会に恵まれた。洋二郎作品は一度目にしたら強烈に記憶に残る力を有しているものの、同時代の美術作品とは一線を画した作風ゆえ、私自身それらをどう理解して良いのか、俄かに判断がつかなかったのもまた、事実であった。けれど、直子さんの「伯父を後世に伝えたい」という熱い思いに触れ、自分に何かできることはないだろうか、と頭の中で模索するようになった。


 今回の書籍化の話が初めて出たのは、2019年5月17日であったと記憶する。その日、直子さんと弟の宏之氏との食事会の席で、これまでの活動をまとめたい旨と、監修と解説を私にお願いしたいという話があり、即座に快諾した。この日、かなり前に私が新聞紙上で洋二郎作品《少年と猫》を目にしていたという「偶然」の発覚も、その決断を後押ししたのだった。ただし、私が「総論」を書くという発想は、この時にはまだなかった。


 2019年中に直子さんは展覧会リーフレット掲載文や作品解説、新聞記事、ギャラリートーク、手紙やメール、書評、エッセイなどをワードデータに入力し終え、私が翌2020年初頭より、掲載誌との照合と校注作業に取り掛かった。


 合わせて、同年3月より島村諸家所蔵資料をお預かりし、デジタル化と目録作業を開始した。ちょうどこの作業中にコロナ禍に見舞われ、週1回の出勤以外は自宅待機となっていたため、デジタル化作業は大いに進んだ。一方で、目録化は悩みながらの牛歩作業であった。というのも、一次資料と二次、三次資料をどう分類するかで自分自身でも方針が大きく揺れ続けたのである。内容も、島村家に関係するものと、洋二郎に関係するものに大分され、より良い分類方法の模索は、相当長く(実は発刊後まで)続いた。


 本の構成について直子さんと意見を交わすうちに、洋二郎がどういう人であったのかを良く知る人でなければ、内容が理解できずに手に取ってもらえないのではないか、という思いが頭をもたげてきた。それに、洋二郎作品を後世に伝えていくためには、きちんとした研究をもとに美術館や研究者、美術愛好者に対して発信していく必要があると考えたのである。そして、一次資料はじめ関係資料を自由に読める立場にあり、必要とされる研究水準を理解しているのは…私しかいない。ここに至って、私は「総論」を書くとの決意を固めたのである。


 2021年に入り、未知谷から出版していただけることになり、いよいよ「総論」をまとめなければならない状況に「追い込まれた」。この間、何もしていなかった訳では決して、ない。冒頭と最後は既に原型があり、どう洋二郎の人生、そして資料と向き合うかの模索を続けていた。私の中には、ひとつの指標―恩師・小池寿子の仕事「戸嶋靖昌 存在の地層」(執行草舟『孤高のリアリズム 戸嶋靖昌の芸術』 2016.3 講談社エディトリアル所収)があり、方法論の面で大いに意識して、構想を練り続けていたのである。後にわかったことだが、戸嶋と交流があった画家・麻生三郎のアトリエを洋二郎が訪問していて、間接的に繋がるとは、その時は想像すらしなかった。


 だが、出版社が決まり、出版スケジュールが始まった以上、残された時間は多くない。覚悟を決めて書き始めたものの、進捗は遅い。

 4月30日時点でようやく第1章と第5章をまとめたものの、第2~4章は資料もそれなりに多い上、それぞれの記述が微妙に異なっていたため、「史料批判」が必要になる。公的な記録や、洋二郎の手による間違えようのない一次資料と、事実ではあるが記憶や回想というやや曖昧な二次資料との整合性を確認する作業は、予想よりも時間がかかった。5月17日時点で第2章の1(画家時代第1期)を書き上げた。


 それにも増して私が苦労したのが、作品論である。恩師の教えもあり、多くの美術作品を目にする機会を努めて作ってきたこともあり、「感覚的」には脳内で作品を理解しているつもりではいるが、それを他人に伝えるのが大の苦手なのである。もともと「史学」の人間で、史料に書かれていることを分析し、論を組み立てるトレーニングはしてきた一方、作品を言葉に変換する訓練はしたことがない。むしろ、「自分には出来ない!」と思い、避けてきた分野でもあった。しかし、やるしかない。迷ったときは恩師の「指標」を読み、ある意味手法を真似てみる(恩師に到底及ばないことは百も承知で)ことで挑んだのである。そうして、苦闘の末に5月31日に第2章の2(画家時代第1期作品論)がまとまった。


 だが、まだ3章と4章が残っている。6月18日に第3章の1(画家時代第2期)を、29日に第3章の2(画家時代第2期作品論)を書き終えた。そして、最も資料と作品が多い第4章(画家時代第3期=最晩年)に取り掛かった。途中、それまで言われていた展覧会出品歴と、当時の出品記録が一致しないという大波乱があり、コロナ禍で入館制限のあった東京都現代美術館美術図書室や東京文化財研究所資料閲覧室の予約を取っての確認作業に追われた。そのため第4章の執筆期間は想定以上にかかり、7月中に完成させることは出来なかった。7月29日時点で亡くなる4年前までを仕上げ、その後も1年刻みで評伝部分を書き進めた。最晩年の作であり代表作でもあるクレパス画の作品論は難産となり(ただし、苦しんだだけの発見はあった)、ようやく8月17日に脱稿した。


 約2週間ごとに原稿の続きを入れ続ける生活が約4か月続いたわけだが、「多重債務者」ってこういう気持ちなんだろうなあ…と、感じたのを憶えている。私のこれまでの原稿の中で、最も時間がかかったのが、この「総論・島村洋二郎」である。


 ともあれ、洋二郎の37年間の生涯を駆け抜けた。評伝を書くということは、その人の人生を伴走することなのだと、改めて思う。良くも悪くも、その対象人物に引っ張られる。例えば、洋二郎の入院中に家計を支えるために働き、見舞いになかなか来れない妻に対する想いを記したノートを読んだとき、その「重すぎるラブレター」に気持ちをやられたことを思い出す。これはある意味、役を演じる役者にも通じるかもしれない。


 また、逆に檄を飛ばしたくなる瞬間もたびたび訪れた。結婚して家族を養う立場になった洋二郎は、旧制高校同級生の兄や、先輩である福田恆存に紹介された仕事(国際文化振興会、日本語教育振興会)に就くが、どちらも短期間で辞めてしまう。洋二郎は家族や友人など、周りの人に大変恵まれていた人で、他人事ながら「なんでこのチャンスを!!」と憤ったりしたものだ。がっつく私とは異なり、洋二郎は自分がどうしたいか、でしか動かない。身近な人は大変だったとは思うけれど…。


 たまたま脱稿時点で私が38歳で、時代は違えど洋二郎とほぼ同年生きてきたこともあり、おおよその出来事や葛藤は通ってきた道でもある。時に共感し、時に反発しながら、島村洋二郎の一生を書くという貴重な機会を与えてくださった島村直子さんに、改めて感謝したい。


 2021年12月16日、刷り上がった本が届き、手にした時の感動は一入であった。その後、2022年3月21日には松戸市民劇団のご厚意で、講演会が開催された。本では叶わなかったが(主に予算面で)、洋二郎の作品と、彼が影響を受けた画家の作品と並べて比較することで、80名近い聴衆の皆さんに洋二郎作品の魅力を伝えようと試みた。会場には直子さんのご厚意で、私が選んだ5点の洋二郎作品が展示された。また、各時期の洋二郎の詩を3点選び、その時期の洋二郎の心境を象徴するものとして、講演中に劇団員さんに朗読していただいた。普段の展覧会の企画とは違った演出が出来て、これも貴重な経験となった。主催の松戸市民劇団の皆様にも、改めてお礼申し上げたい。


 最後に白状すると、講演の構想も恩師の講演「存在の地層―邂逅と回帰」から多大な影響を受けている。今回、恩師から受けた学恩は計り知れない。評伝を書く際に用いた史学的方法論を鍛えてくださったもうひとりの恩師にも。

「小池寿子先生、千々和到先生、ありがとうございます」 小寺瑛広(日本近代文化史・松田修資料アーカイブ事業学芸担当)

 甕星6号に「島村洋二郎と出会って」という題で掲載して頂いたので、画家・島村洋二郎に目を止めて下さった方が居られるかもしれませんね。この本は、その島村洋二郎についてまとめた、最新研究書です。

 昨年暮れに上梓された前後のことを少し書かせて頂きます。



 4月9日付けの図書新聞には、平井倫行氏の書評が掲載されました。

 丁寧に読み込み、画家にまつわる物語ではなく、絵そのものに、今こそ向き合う時なのだというメッセージが伝わってきました。小寺氏の仕事の重要性にも触れており、これからこの本を通じて洋二郎作品に興味を持ってくださる方がきっと現れると思わせてくれる書評でした。


 実は10年過ぎていました

 

 2009年、『眼の光 画家・島村洋二郎』(土曜美術社)を上梓した折に、頁数の関係で掲載できなかった資料をまとめておきたいと、一人で企画を立てたのは、2010年のことでした。

 その後、2012年母を見送り、翌年、柏で洋二郎の没後六十年展を三日間だけ開き、2015年には洋二郎の映画が出来上がり、次の年には、生誕百年の集いを開いたりしていく中で、少しずつ資料を整えて行きました。

 本の構成は、最終的に、当初考えていたものとはすっかり変わりました。2020年までは、展覧会のチラシやDMに掲載したもの、新聞に掲載したもの、手紙類等というような分類で章を立てていました。ところがその方法では、流れが掴みにくいことに気が付き、展覧会ごとにまとめてみたのです。

 しかし、出版社とはなかなか出会えず、未知谷と出会えたのは、2021年に入ってからでした。未知谷の飯島氏は、2011年キッドアイラック展から洋二郎展を見に来て下さり、詩画集『無限に悲しく 無限に美しく』(コールサック社)も高く評価して下さっていたのです。

 そして10年以上過ぎても出版することができたのは、資料の掲載を快諾して下さった方々、展覧会のたびに駆けつけて下さった皆さん、様々なアドバイスを授けて下さった方々のお蔭もあるのだと、今改めて感謝の気持ちで思い返しています。


 小寺瑛広氏と出会う


 小寺瑛広氏と初めてお会いしたのは、2015年7月、映画「島村洋二郎の眼差し」完成上映会の会場でした。徳川昭武の研究に携わっておられる方が、洋二郎の作品に興味を持たれたことが少し不思議な気がしつつも、若い方に作品や映画を見て頂けることが、とても嬉しかったことを覚えています。

 そして、小寺氏は、2016年、宮城道雄記念館での「生誕百年の集い」にも参加くださったのです。ちょうどその頃、祖父が残した手書きの自叙伝の入力も進めていた私は、困っていた事を相談しました。筆で書かれた文字の読み取りが難しくて、特定できないものがいくつもあったのです。すると小寺氏は「読みやすい字ですよ。原本をコピーしてくれれば、読み取れなかった字を赤で入力しますよ」と、申し出て下さったのです。有難いお申し出に感謝しながら作業を進めて行きました。

 そのやり取りの中で、洋二郎の資料をまとめておきたいので、入力作業をしていることもお話しました。そして、その本に、洋二郎について書いて下さることになりました。その時は、こんなに本格的な「洋二郎総論」となるとは、予想していませんでした。

 小寺さん、未来につながる仕事を、ありがとうございました。


 出来上がった本


 12月17日、製本所から本が届くと知り、私は未知谷へ出向きました。トーランスに住む洋二郎の二男・テリーと、モントレーに住むテリーの養母かね子さんに一日でも早く本を届けたかったからです。

 製本所から届いた本の匂いと手触り、そして重さ。大切に作って頂いたことが伝わって来る瞬間を十分に味わう間もなく、それぞれ小さな手紙を付けて包むと、近くの郵便局へ。届くのは、クリスマス過ぎると言われましたが、コロナ禍中では仕方ありません。

 都内の書店には、ジュンク堂、丸善他に、数日後入荷すると未知谷でお聞きし、私はとても楽しみにしていました。

 神田東京堂には翌日並ぶと知ったFさんは、早速ランチタイムに駆けつけてくれました。まだ並べる前だったそうです。そして、その日の午後には、散歩のついでに立ち寄ったHさんが東京堂の平台に置かれた本を「お~、とうとう出たか!」と、購入してくれたのでした。


                  東京堂書店で


 この本が、洋二郎作品に興味を持った方の役に立つことを願ってやみません。


 作品展を


 「作品展を開いて欲しい」という声が、出版を終えると、届いてきました。開きたいです。・・・でも今年は厳しいかな?と、他の方が企画して下さることに、感謝しながら協力させて頂いています。

 2022年は、まず初めに、3月21日に共編・著者小寺瑛広氏の講演会が松戸市民会館で開かれました。松戸市民劇団の主催で、80人ほどの参加者の眼差しの中、小寺氏の洋二郎に対する熱意溢れる講演となりました。作品も会場に並べました。《黒いベールの女》《緑色の首飾りの女》《横顔の男》《猫と少年》《婦人像(オレンジ)》の5点です。

 次は、5月13日、アートギャラリー884で、すかがわ短編映画祭アーカイブ展が開かれ、洋二郎の映画も上映されたのです。この映画は、2015年に完成した作品で、翌年第28回すかがわ短編映画祭で上映されたものです。洋二郎の作品も《黒いベールの女》《女の顔》の2点が展示されました。

 そして、この秋10月には、池之端画廊で、里見勝蔵を巡る画家の三人展(荒井龍男、熊谷登久平、島村洋二郎)が企画されています。板倉鼎・須美子の画業を伝える会の代表理事・会長M氏の企画です。里見勝蔵と洋二郎の作品が並ぶのは初めてのことです。どんな展示になるのでしょうか。


              3月21日小寺瑛広氏講演会会場


             《黒いベールの女》講演会会場で


                会場に飾られた作品


これからのこと


 洋二郎作品は、空襲と大火であらかた燃えてしまいました。ですから、市場に出ることもほとんどありません。

 今回の本のあとがきの中に、私が紛失してしまった《君子像》をどこかで見かけることがあれば、ご一報くださいと書きました。「《君子像》は力のある作品なので、拾った方が大切にしてくれているから心配無用」と慰めてくれる人もいます。破かれたり、捨てられたりしていなければ、どこかの部屋に飾られているなら、私はそれでも良いのです。絵画作品というのは、飾られて毎日のように眼差しを注がれてこそだと思うからです。それでも、もし古美術商に売りに出されることがあれば、気が付かれた方、どうぞご一報ください。


              《君子像》1951~53 クレパス


 私は、洋二郎の作品展を公立の美術館で開けたらという願いを、まだ持ち続けています。美術館にとっては、無名の画家の作品展など無謀な行為でしょうか?今まで埋もれていた作品に光を当て、世に問うことも、美術館の大切な仕事の一つではないでしょうか。

 先日、東京ステーションギャラリーでの企画展を拝見し、藤田龍児という画家の作品に初めて出合いました。あまりの色の美しさに圧倒され、この作品展を企画したステーションギャラリーの見識に瞠目しました。と同時にその企画力に敬意を表したいと思いました。


 まだ洋二郎作品と出合っていない方の為にも、2023年には、島村洋二郎展を開く心づもりでおります。その折には、是非、足をお運びくださいませ。


(島村直子)









 





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