最終更新: 4月24日

 ポスト・ヌーヴェル・バーグの映画作家、フィリップ・ガレル。彼のインタビュー本「心臓の代わりにカメラを」において、レオス・カラックスはガレル監督作品『秘密の子供』(1979)についてこのように書いている。「大気が冷たい。カールのかかった髪を通し、男は女を見つめる。二人は一緒に震えている。映画が震えている」。まさしく本作は“震え”の映画である。風に揺れる木の葉、振動する窓、モノクロの画面に眩い暖炉の炎、自然が作り出す震えと共に、ある一組の男女の愛を捉えるカメラと、痛みと幸福で満杯となった恋人たちの身体は、アンヌ・ヴィアゼムスキーの天使性をたたえた巻き毛は、堪えきれないというように小刻みに震えている。永遠に痙攣し続ける愛の誕生と変容。「あなたの心はカメラなの」—フィリップ・ガレルの心=カメラは、恋人ニコとの別離を蘇らせた永遠の舞台において、悲痛に狂おしく震え続けている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの元メンバー、歌手のニコとの愛の記憶を描く本作は震えと眼差し、反復で構築された、ぱっくり割れた心臓から生々しく流れ出る涙の結晶であり、癒えない傷跡そのものが擦り切れた愛を見つめ直す映画なのである。


 ファトン・カーンの音楽で雄弁さを増す暗闇に、物憂げな眼差しが蝟集している。長く続く叫びよりもぞっとさせる、裂くような露光。想起される瞬間を生きる人々の、極めて私的な物語と映像には、写真が持つ、魂を抜き取る凄みを感じさせる。既に崩れてしまった愛、つぎはぎだらけの思い出のコラージュは、視線の指の間をすり抜け砕けてしまいそうに儚い。部屋の中に横たわる女がいる。男が見つめている。視線は交わり、再び離れる。彼らの視線の睦み合いは何度か反復される。ガレルの映画で、女たちはじっとシーツの上に身を投げ出し、瞼をつむり、慈愛と装置としての冷静さが同居した眼差しで抱擁される。ただ視線を交わし合う男と女、開け放たれた窓も眼前に広がる海の開放感も養うことのできない濃密な空間に、すぐ恋人同士だと汲み取ることのできる、なんと陶然たる画だろう。「あなたの心はカメラなの」劇中のその台詞の通り、ヴィアゼムスキーがその役割を担うかつての恋人を、彼女の子供を見つめるカメラ=主人公の視界は時折霞み、睫毛が震えるように揺さぶられるのだ。暗闇に溶けた男と女、確認することができるのは口付けだけ。雨の中傘もささずに座り込む二人。佇むだけの彼女に心は近寄り、全く同じシークエンスが反復する。『革命前夜』(1964)で若きベルナルド・ベルトルッチが別れを惜しみ抱擁する恋人たちの姿を反復させたように、その瞬間を凝固させたい、もう一度経験したいという沈痛な願いは映画によって達成されるのだ。しかし、カメラを心に、カメラを心にしてかつての恋人ニコとの愛を、パーソナルな愛の痛みを虚構の世界において反復するガレルの試みはある種の呪縛さえも嚥下したストイックさが感じられる。


 ニコの死後の1991年、ガレルは彼女に捧げる映画『ギターはもう聞こえない』を発表する。デニムジャケットを羽織る“本作でのニコ”マリアンヌに扮する、ヨハンナ・テア・ステーゲの眠る姿。ほの暗い海の下で燃える情熱と虚無で、全編に渡り息は詰まりそうだ。「男と海(ラ・メール)」という甘美な台詞から始まる本作は、『秘密の子供』とほぼ同じプロットを持つ。ニコとの物語は、ガレルの当時の伴侶ブリジット・シィに生活の倦怠を託して、再び語られ直すことになるのだ。だが同じ恋人との愛の変遷を描いた『ギターはもう聞こえない』と『秘密の子供』の魅力も、映画における眼差しも、決して同様では無い。「あなたの“目は”カメラなの」、では無く「心がカメラだ」と呟く映画監督の覚悟は、『秘密の子供』において、生々しい傷口と不安定な恋愛の機微とを抱擁する役割を果たし、「映画の痙攣」「映画の震え」という美と変わり威厳を発揮し続ける。モノクロの、極北の舞台で、恋人たちは回り続けるフィルムの中で何度も出会い直し、“現在”となり、永遠となってゆく。セルロイドで出来た恋人たちの“秘密の子供”へ注ぐ眼差しへおろす探査機もまた、震えているのだろうか。「二人は一緒に震えている。映画が震えている」。


(和泉萌香)

最終更新: 4月24日

 青が浮かび上がる。濃密な青だ。全てが詰まっていると思わせ、心が海に包まれて澄み切っていくような青、最も美しい夢の子宮を思わせる青、感傷は無く、穏やかに深い思考へと誘うような青が。ガブリエル・ヤレドの音楽が美しい孤独に口付けられた夜に寄り添う様に流れ出す。本作の登場人物、激しい性格を持つ女性ベティの色は青である。


 ジャン=ジャック・ベネックス監督による『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』は男と女が激しい愛に溶け、女はその気性の為にあちこちで衝突を引き起こすが、男はそれでも変わることなく彼女を愛し、だが女は次第に理性を失っていくという、第三者から見れば“狂気”とも捉えられる異常な物語である。だが本作を“恋愛の”映画として見ることは少々短絡的であろう。確かに、ベアトリス・ダル演じる野生的な官能を持つ女、“絶対”を求め、あらゆる事に逡巡しない女ベティと、彼女がいかなる奇行に及ぼうが愛し続ける男ゾルグの姿は、蜜月以外の時を排した時刻の中のみで生きるあらゆる恋人たちと同様に危うい吸引力を備えている。だが本作が人間ふたりによる“恋愛”の物語に止まらないのは、それは過激とも言える執筆、創作への渇望と文学への信仰が核に据えられているからであろう。

 映画では“結合”が印象的に表れる。始まりはゾルグとベティのセックスシーンである。ふたりは互いの過去や詳細な情報を持ち合わせておらず、また出会いのきっかけも描かれない。彼らは物語の最初から“愛し合う者たち”としてだけ存在するのだ。酒を飲むシーンでは、ゾルグはテキーラとシュウェップスを混ぜ合わせる。そしてベティの象徴は青色、ゾルグの色は青の反対色の黄色なのである。青のワンピース、アイスキャンディ、夜の天蓋の色は青。ゾルグは黄色のタンクトップやジャケットを纏い、彼の頭上には蜂蜜の様にまろい黄色の陽光が降り注ぐ。ふたりの青と黄色は時に同じ部屋の中で混じり合い、ピアノの旋律と共に世界から隔絶された静謐な舞台を演出する。ベティはどこからやってきたのだろうか?彼女は、ゾルグのただの“恋人”なのだろうか?ゾルグは海辺のバンガローでペンキ塗りの仕事をこなし日々を過ごしているが、彼にはかつて行っていたことがある。執筆だ。それを知ったベティは彼に伝える。「あなたは素晴らしい作家よ」そして彼女は家を大胆にも焼き払い、単調に仕事をするゾルグを見れば時に叱咤し、何度も伝え続けるのだ。「あなたは作家なのよ」冒頭、ふたりのベッドに掛けられている絵画は「モナリザ」である。また劇中こんなやりとりも行われる。男がゾルグに尋ねる…「君はどんな小説を書いているのか」ゾルグは答える。「推理小説だよ」だが再び同じ質問を投げかけられれば今度はSFだよ、と答えるのである。「モナリザ」に象徴される様に、ゾルグは自分が行いたいこと=執筆に対して曖昧さを抱いていると言えよう。だがベティが正気を失っていくごとに、彼は再びペンを取り、夜の最も深い時刻においても、美しいと感じられる文章を綴る様になっていくのだ。ゾルグもベティの為に強盗を働いたり、問題を起こして警察と出会ったりするものの、その度にユーモアある理由で見逃される点も面白い。詩人コクトーはジャン・マレーへの手紙で「僕は君から始まり、君で終わる」と書いたが、まるでゾルグもベティによって生まれた子供、まだ世間に縛られる必要の無い子供と変わらない状態であり、“初めて”人生を生きている様だ。

 時に常軌を逸した行動に及ぶベティを見て、友人たちは「狂人」と言うが、ゾルグはその憐みと節句混じりの“狂人”の言葉には激昂する。だがゾルグは狂気を否定しない。フィリップ・ディジャンの原作の言葉にある様に「普通を突出した面白いもの」であり、映画の言語によって自分とは異なる“狂気的な存在=ベティ”との融合が生起するのである(これを提供してくれないだろう、と言う事を理由にゾルグは他の女性とのセックス=融合を断っている)。原作小説に、ディジャンの創作への信念が垣間見れる一文がある。「連中は愛もなく、狂気もなく、エネルギーもなく、そして何よりもスタイルが全くない小説を垂れ流していた」社会で生きていく上で日々の生活は送らざるを得ないが、湧き起こる創作への欲求、真に耽溺するには、それはある種の覚悟、常識を超えた覚悟が必要とされるのでは無いか。その必要な“狂気”を備えたベティは、ゾルグの作家と言う自我に身を潜めていた存在なのではないだろうか。映画の終盤、二つの場面で突如ゾルグは女装を始める。女の性を持つベティとの融合を果たしたと言う様に。そして、最後ベティはゾルグの元から姿を消すが、それはベティ=狂気との融合が果たされ、作家として生きていく事を決意し、彼が“ベティ”の名前を持った存在は必要が無くなったからではあるまいか。

 映画では男にゾルグと名前が付けられているが、原作では主人公は終始一人称の“僕”であり、名前を持たない。まるで『ファイト・クラブ』の様に、読者は“ゾルグ”なる人物の話ではなく、自分たちの物語としても読むことができるのである、「分散ではなく、集中することに決めた」狂気を味方に、書き続ける事を決意した作家の美徳的な声明であり、そしてまた単調な毎日や消費される生活に区切りをつけ、己が真に成したい物事への探究と集中を喚起させる、人々への情熱的な賛歌なのである。 原題は37.2度、これは女性が最も妊娠しやすい体温と言われている。リルケが「想像する最も深い体験は女性的である。と言うのは、それを受胎し分娩する体験だからである」という言葉を残しているが、世間に迎合しない作品を創造する時刻を懐胎の温度になぞらえ、男と女の“現実では養いきれないくらいの体験”のプロットを取り、激越な表現と魅力をもって描かれた『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』は美々しい神話として我々を熱狂させ続ける事だろう。消えることの無い青、それは美しい狂気で養われた色、創造の肉の色、たったひとつの愛を司どる色、愛の器官の色だ。


(和泉萌香)

 映画は動くものだ。物語、起こることを流動する暗闇と光と色彩で描くものだ。『インディア・ソング』(1975)の映像は、登場する彼らは、太陽であってさえも、ぴたりと凝固したように静止し、時折緩慢に動きを見せるだけだ。あなたの沈黙、胸が張り裂けそうな彼女の沈黙は、泣き声は、眩暈は、映画の静止が請け負っている。微かに揺らめいているのは線香の煙だけ。もうここには霞しかないというように。あなたの物語を大きく占めているものはもうひとつ、喪失だろう。欠如。忘却。失うことによって、それを行わない、欠如させてしまう、ということによって手に入れる永遠。愛。『インディア・ソング』画面に登場する彼女…アンヌ=マリー・ストレッテルも、美貌の愛人たちも、副領事も、もうここにはいない。気が違うくらいの愛は終止符を以てして、死を以てして、喪失、忘却を以てして、あなたによって永遠となる。虚構の世界に刻印されることを許される。


 1930年代、カルカッタのフランス大使館。副領事は、大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルへの不可能な愛で狂気に陥る。決して動いてはいけない、目を瞑ってはいけない、そうして何も見ていない。目を瞑りなさい、視力を最も強めるために、だけれども何も映ってはいない。たじろぐことなく見つめられなさい、眠るように存在を発揮しなさい、女の黒衣のガウンをゆっくりと脱がせるように、浮かび上がる言葉、書かれようとしている言葉の旋律を受け入れなさい、そんな風に『インディア・ソング』は時間を奪う。そこへ帰してゆく。海に。くすんだ空、灰色とヴァイオレットが混ざったような空に紅の太陽が浮かんでいる。瀟洒な広間、森、乞食女…“声”は“かつてあった”出来事を語り、映像は“かつてあった”出来事をまるでさも“現在行われていること”のように出現させる。亡霊たちだ。アンヌ=マリー・ストレッテル。彼らは佇み、ピアノ曲のタンゴに合わせて緩やかに踊る。過去に進行していた物語、記憶。記憶はもう持ち主がいなかったとしても、そのものとして残り続けているのだ。持ち主を失った記憶は“映像”という媒体を借り、仮そめの姿を借りた亡霊たちが演じることにより、再び出現する。


 デルフィーヌ・セイリグ。愛の挫折があり、曖昧な記憶や不死性への渇望や願望が入り混じった迷宮で再びこちらに向かって振り返る、冷感症の女神のように存在してみせた『去年マリエンバートで』(1961)とは異なり、『インディア・ソング』では色づいた映像の中で蒼白な顔をして登場する。迷宮で彷徨っていた女は今、喪失が既に“起こった”仮そめの空間において背筋を伸ばし、見つめている…鏡を。そうして何も見つめていない。あなたのエクリールは、それから、官能でも満たされている。映画も官能で満たされている。それは月食の夜から滴り落ちるような官能。身体の内側で愉悦から生じる震えが起こり続けているような官能。目を背けさせながら、妖しげに指を深淵部に誘うような官能。冒頭に浮かぶ太陽から、デルフィーヌ・セイリグの美しい桃色の乳房で画面はいっぱいに満たされる。あなたが書いた言葉を借りるならば、彼女も雨の肌を持つ女だ。死んだはずの者たちから立ち昇る生花の匂いのような官能。あるいは熟しすぎた果実のような官能。東洋の湿度が、相容れない者たちを叫ばせるような湿り気、両腕を大きく広げた海が潮の匂いを恋人の肌に孕ませた官能。千人の女の憂いと眠りを一緒にしたみたいな女。デルフィーヌ・セイリグが演じる女にも、あなたが描いた女たちは皆死の力を隠し持っている。余りにも大きくて抱えきれない愛みたいに、その死の芳香が官能を呼び覚ます。あなたは、デルフィーヌ・セイリグは映画の涯からやってくると書いた。彼女は劇中鏡の中を出入りする。カメラの前から消えたと思えば鏡の中に姿を現す。鏡の奥からやってくる。鏡に吸い込まれてゆく、飲み込まれてゆく。書かれようとしている物事、呼び覚まされた記憶が再び身を潜めてしまうように、見つけられようとしているように。その最中も聞こえてくる“声”と、虚構の更に内部に行ってしまう彼女、彼らの姿というずれはますます狂おしい葛藤を連れてくる。


 あなたが出会った、死で養われる愛の中心にいた女。あなたは何度も書き直す、連なる鏡のように、記憶や姿を転移させてゆく。本作の後に制作された『ヴェネツィア時代の彼女の名前』(1976)に映し出されるのは、もはや上流社会の名残も無い瓦礫が散乱し煤けてしまったがらんどうの館。かろうじて差し込む白んだ陽光だけが柔い。『インディア・ソング』の音声が廃墟の映像に被せられる。彼…副領事が彼女に愛を告げ、絶叫に至る…カメラは“記憶”の眼差しとなり、終焉の館にて愛する女を探す。ひとつの物語が時を経て、再び同じ場所へ戻ってくること、言葉や音楽が視線と変わる、映画が起こす化学反応。あなたが描いた女は姿を見せずとも、あなたによって“語り直される”世界において死と生の芳香を滅させることは無い。あなたの女たちはそんな転移を、迷っていることも、迷宮をも受け入れる。愛を虚無を叫びを失われた全てを無意識と健在意識の狭間で立ち尽くす瞬間もその肢体いっぱいに受けて立っている。彼女は泣きたくなるくらいに全てなのだ。アンヌ=マリー・ストレッテルは。だから、海へと帰っていったのだ。


(和泉萌香)