top of page

三人展の企画


 里見勝蔵(1895~1981)を巡る三人の画家、熊谷登久平(1901~1968)、荒井龍男(1904~1955)、島村洋二郎(1916~1953)の作品を集めて、池之端画廊で10月に三人展をやりませんかと、水谷嘉弘さん(一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会代表理事)から電話がかかって来たのは、今年の3月上旬でした。他の二人の作品所蔵者(熊谷明子さん、野原宏さん)からは承諾を得ているとのこと。搬入搬出などの心配も不要とのことで、了解しました。

 水谷さんが、小寺瑛広さんの講演会会場で、三人展の告知をしたいとのことで、主催者に頼み、時間を取って頂きました。

そして、紆余曲折はありながらも、三人展への準備は進んで行ったのでした。


 会期は、池之端画廊主鈴木英之氏のご厚意で、10月12日(水)~30日(日)(月曜、火曜は休み)と決まり、一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会の協賛を得て、チラシも出来上がりました。




               三人展初日 池之端画廊


三人の画家について少し


・熊谷登久平(1901~1968)

 岩手県一関千厩の豪商の家に生まれた登久平は、画家を志して上京してからの苦労はあったものの、二科展に入選してからは実家からの援助も潤沢で、絵を描き続けました。

熊谷登久平の二男寿郎さんの妻明子さんは、6年前寿郎氏と結婚されてから熊谷登久平の作品の顕彰活動を始めた、稀に見る方です。ブログは、ほぼ毎日更新し、作品の整理にも意欲的です。ブログを読めば、彼女の意欲的な活動が良く分かります。ご覧ください。



 また、明子さんは、今回の三人展会場の池之端画廊で、昨年「熊谷登久平展」を開いています。

 57歳で二男を授かった登久平が「子どもにも分かる絵を」と描いたのが、《ねこ・じゅうたん・かがみ・ 裸女》だと明子さんが教えてくれました。明るく温かな色使い。伸びやかに横たわる裸婦の友だちのように黒猫は寝そべっています。この作品以降、登久平の画風は変わり、登久平らしさが出たと評されました。



         《ねこ・じゅうたん・かがみ・裸女》1956年 油彩


 登久平は、長谷川利行と一緒に、当時池之端画廊のある場所からほど近い彩美堂で、二人展を催し、そこへ現れた里見勝蔵と意気投合します。そして里見の家まで出かけたそうです。そして利行と登久平は、一晩で一升瓶を3本空けてしまいます。里見は以後二人に酒を供することは無かったとのこと。

画廊での明子さんの話は、面白くて、あっという間に時間が過ぎてしまいました。

 そういえば、洋二郎は第15回白日会展に《少女B》を出品し、その作品は第13室に展示されました。

 その時登久平は、審査員をしていたと、明子さんから教えてもらいました。

 登久平と洋二郎が繋がった瞬間です。


・荒井龍男(1905~1955)

 荒井作品は、コレクターで、「わの会」創設者でもある野原宏さんが出品しました。

展覧会初日、夫人と共に来廊され、その話ぶりは実に穏やかでした。



 荒井龍男は、ソウルから里見勝蔵に葉書を出しているのですが、その中で里見に頼みごとをしています。


「渡欧出発は十月初旬の予定ですが 何か巴里での便宜をお授けゐただければと存じますけれど・・・シャガールへのご紹介頂けませんでせうか。其の他何かいいお考へでも御座いましたら、どうか後進の為に道をお開きください。  ―昭和9.9.15消印―」


 実際里見勝蔵が荒井龍男にシャガールへの紹介をしたのかどうか、定かではないようですが、文面からは、里見勝蔵が後輩から慕われていた事が読み取れます。

 帰国後、1937年、彼は自由美術家協会の創立に参画し、作品を発表し続けます。

 しかし、戦後、自由美術を退会して、同志と共に1950年モダンアート協会を設立し、会員になります。

 アメリカやブラジル等で何度か個展も開きます。

 そして帰国後7月にはブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館)で個展を開くのです。

 その個展終了後に受けた手術の後、急逝。 51歳でした。


            《ボードレールの碑》1934年 油彩


 荒井龍男はボードレールの墓を描き、洋二郎はボードレールの詩を愛唱していました。

 二人がどこかで出会っていた可能性は?

 ボードレールが単に当時の流行だった、ということではないように思えます。

 洋二郎の友人で画家の勝呂忠は、モダンアート協会の設立準備に、山口薫、小松義雄らの勧めにより参加しています。会員になるのは勝呂が明治大学を中退した年1952年です(『日本美術年鑑』昭和31年版p154)。

 勝呂忠と洋二郎との繋がりから、洋二郎と荒井龍男が出会っている可能性は、全く否定し去ることは出来ないのではないでしょうか。

 一方で1951年の第15回自由美術展に洋二郎は出品・入選しているのです。


・島村洋二郎(1916~1953)

             《桃と葡萄》1938~39年頃 油彩


 三人の中で一番若い洋二郎は、1935年画家を志し旧制浦和高校を退学、里見勝蔵のアトリエ(杉並区井荻)に通い始めました。

 この《桃と葡萄》は里見に師事していた頃に描かれた作品で、強く師の影響が感じられます。

 同時に、絵を描く喜びや、洋二郎の若々しさ等が伝わってくる作品ではないでしょうか。

 この《桃と葡萄》は、私が所属している梅野記念絵画館友の会が主催する「私の愛する一点展」第20回(2021年6月5日~7月28日)に出品しました。

 その折の反響は届いてきませんでしたが、今回の三人展では、「《桃と葡萄》から、あたたかさ、力強さを感じてきました」というメールを頂きました。

 この「私の愛する一点展」は、友の会の会員が、所蔵する作品を一点、コメントを付記して出品するという展覧会です。出品作品の図録も作成されています。

 発案者は初代館長梅野隆さん。スタートしてから20年以上が経過しています。

 2023年度は、6月25日~8月28日 に開催される予定です。  

 しなの鉄道滋野駅または田中駅で下車、タクシーで10分ほど登った芸術村公園の中にある美術館です。時の流れ方が、下界とは全く違う別天地です。


  梅野記念絵画館  https://www.umenokinen.com



    梅野記念絵画館ロビーから雪の浅間山を望んで(信州とうみ観光協会提供)


・里見勝蔵(1895~1981)

 生涯で2度パリへ渡り、ヴラマンクに学び、日本にフォーヴィスムを紹介した画家として知られています。

 里見勝蔵=フォーヴィスム という図しか思い浮かばない私でしたが、今回、会場へいらして下さった美術評論家・瀧悌三さんから、「フォーヴィスムでくくることが出来るのは、1905年をピークとした、数年間ですよ」と教えて頂き、里見がヴラマンクに出会ったのは、1921年だと、思い出しました。

 今回、瀧悌三さんの言葉から、「里見勝蔵展」(目黒区美術館)、『ヴラマンク・里見勝蔵・佐伯祐三展』(安田火災東郷青児美術館、現SOMPO美術館)の図録を引っ張り出して見てみました。

 もしかすると、洋二郎が里見勝蔵から受けた影響は、私が思っていたよりも、ずっと大きいものだったのかもしれません。


                  画廊2階風景


出品者と出会う


 会場で、《猫と少年》を熱心に観る女性がいたので、つい声掛けしてしまいました。すると、その方は、里見勝蔵作品を3点出品された方と分かりました。彼女は「私、強い絵が好きなんです。」と言い、2階に展示した油彩の自画像《菫の花を持った自画像》も好きだとのこと。彼女は、祖父から里見勝蔵作品3点を受け継ぎ、今回の展覧会に出品してくれたことも分かりました。なぜ里見作品をそんなに持っておられたのだろうと聞いてみると、彼女の祖父は、里見に絵を習っていたとのことでした。

 そして、会期後半に、二人連れの女性が、彼女に勧められて会場を訪れたのですが、なんと、このお二人もお孫さんで、里見作品をお持ちとのこと。明子さんや画廊主鈴木夫妻もその場にいて、大いに盛り上がりました。


             《ルイユの家》 1960年 油彩


画廊での初めての出会い

 

 画廊に居ても、意外と声を掛けられることは少ないものなのですが、最終日に私は一人の男性から声を掛けられました。

 坂井さんという方でした。私はそこで、彼の記憶力に敬服します。

 実は、坂井さんは、1987年、現代画廊での洋二郎展を観ておられたのです。

 そして、新聞記事に三人展の記事が掲載(東京新聞10月20日朝刊)されると、そこに洋二郎の名前を見つけ、画廊に来て下さったのです。

 35年も前の洋二郎展を覚えていて、駆けつけて下さったのです。

 青い色が忘れられないと、伝えてくれました。

 芸大の卒業生で現在いわき市にお住まいの山本さんが、作品を見終わったときのことでした。

 「熊谷登久平と島村洋二郎はデッサン力がありますね」と、話し始め、「展示も素晴らしい」と言ってくれたのです。

 率直なその言葉に、居合わせた熊谷明子さんと私は、嬉しさを感じ、さらに話が弾んだのです。

 画廊に置いて頂いた、洋二郎の詩画集『無限に悲しく 無限に美しく』の表紙に惹かれて、即購入して下さった画家もいました。その表紙に使われていたのは、《忘れられない女(ひと)》という作品でした。


         『無限に悲しく 無限に美しく』(コールサック社)


エコールドパリの空気を感じる


 「安川先生が巴里で暮らしておられた頃のエコールドパリの空気が感じられますね」と会場を見回し伝えてくれたのは、ピアニストの松野健史さん。

 松野さんは、小学生の時、安川加寿子のピアノ演奏をレコードで耳にして「この人にピアノを習いたい!」と叫んだという。その後、彼は安川加寿子の弟子となり、映像、CD等で安川さんの演奏を再現することにずっと携わって来られました。

 今回その集大成とも言えるCDが発売されたとのこと。今年は、安川加寿子の生誕百年で4月にはイベントもありました。

 早速聴いてみました。

 まるで真珠の球を転がしているように一音一音が美しく輝く演奏なのです。

 ピアノ演奏に興味をお持ちの方は、是非一度聴いて頂きたい。

 安川加寿子の住まいには、夫君定男さんが洋二郎から購入した《黒いベールの女》がずっと飾られていました。


            《黒いベールの女》1956年頃クレパス


会期中届いた葉書


「前略


本日(10月19日)池之端画廊へ行ってきました。

里見勝蔵を中心とした四人展は、実に良い展覧でした。

洋二郎氏の作品も他の三人の作品と響き合って、

生き生きと輝いて見えました。

絵を見る喜びが、小生の心を一杯にして。

この展覧会のことをお知らせ下って、感謝いたします。」


 大川公一さんから届いたこの葉書は、読み終わった私の心を、温かく包んでくれました。


                  画廊風景



俳句も生まれる


 画廊に来てくれた入江杏さんと、夕方蕎麦屋へ。彼女の俳句の師匠もご一緒です。

師匠はとても愉快な方でした。

 蕎麦屋に行く道すがら、細い三日月がきれいでした。

 その翌日のFBに彼女の句が。


 「冬三日月 街に日常非日常」


 22日には、ストリートミュージシャンの山田さん(仮名)が来てくれました。

 自作の歌を画廊でギター演奏してくれたのです。

 ギターの音色が画廊に響き、至福のひととき。

 歌詞は胸に響きます。

 ライブ最高!!

 お客様は10名。

 13歳から80歳まで多彩な顔ぶれです。

 洋二郎も喜んでいたことでしょう。


               画廊で演奏する山田さん


 Yさんに感動しまして、


 「澄む秋や 画廊の詩人 弾き語る」   茂木りん


 と、参加していた友人がFB句会に投稿。

 俳句でその瞬間を切り取れるって、素敵ですね。



『月刊ギャラリー』11月号 「炎の人」の記事


 10月30日、最終日。

 10月31日に作品が家に戻りました。

 玄関に置いたまま、梱包を解けずにボーッと日を送っていたある日、『月刊ギャラリー』11月号が届きました。

 たまたま開いたページには、劇団文化座公演『炎の人』(作 三好十郎)の記事。

 2023年1月俳優座劇場で上演予定とあります。

 思わず読み進むと、何十年も昔、滝沢修が演じるゴッホを観たことが蘇ってきました。

 ゴッホの苦しみにフォーカスした演技に圧倒され、息苦しかったことも。

 しかし、今回の若いゴッホは、希望についても語ると書かれていました。

 ゴッホの膨大な手紙の中から、一粒の麦の運命を受容したゴッホの思いを、願いを汲み取った演出家、役者の強い意志に思いを馳せずにはいられません。

 洋二郎の晩年の思いに通じるものがあるのではないでしょうか。



この一年を振り返ってみれば、


 2021年12月『カドミューム・イェローとプルッシャン・ブリュー』が未知谷から上梓されました。

 翌2022年、3月松戸市でコロナ禍中にもかかわらず、100人近いお客様をお迎えして、小寺瑛広さんが洋二郎の作品についての講演をしました。

 その後、10月12日~30日、池之端画廊で、今回の「里見勝蔵を巡る三人の画家たち展」が開かれたのです。

 「コロナ禍だからこそ、洋二郎の作品を見てみたい」というお声がいくつか届く中、2回のイベントが開けたことを大変ありがたく思っております。

 そして、御参加、御来廊下さった皆様が、作品と語り合って下さったことにも、御礼申し上げます。

 4年ぶりの展覧会で色々心配もありましたが、画廊主鈴木夫妻の誠実な運営で沢山のお客様に喜んで頂けました。

 また、今回の出品者の方々(明子さん、野原さん、Tさん)とも近しくお話が出来、来廊された方々のお話に耳傾け、これからのことに思いを馳せることも出来ました。

 企画して下さった水谷さんにも御礼申し上げます。

 ありがとうございました。


                  展覧会初日


2023年の洋二郎展


 来年2023年7月1日(土)から11日(火)まで、銀座枝香庵で洋二郎の没後七十年展が開かれる予定です。

 銀座では、1956年サトウ画廊で、1987年現代画廊で洋二郎展が開かれています。

 3回目の銀座で、洋二郎作品は、どのような方々とどのような出逢いが出来るのでしょうか。

 来年の御予定に書きこんで頂けましたら幸いです。 

 近づいて来ましたら、改めて告知させて頂きます。


 枝香庵 https://echo-ann.jp


 来年は、地球にとって穏やかな日々でありますように。


(島村直子)






更新日:2022年11月1日



 松田修資料アーカイブ事業を始めて以降、松田修本人と交流のあった当事者への接触も続けられており、とくに『甕星』編集主幹である平井倫行氏によって、笠井叡氏(天使館)や、麿赤兒氏(大駱駝艦主宰)へのインタビューが行われている。さらに、室伏鴻(1947-2015)に学んだ山田有浩氏による舞踏論など、一連のドキュメントは『甕星』6号(特集舞踏)に詳しい。

 また、本人による寄稿は実現しなかったが、平井氏は最晩年の須永朝彦(1946-2021)と交流を持ち、それは「須永朝彦の紋章学 歌川国芳《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》と辻惟雄『奇想の系譜』を中心に」(1)として結実した。

 その一方で、これまたよくあることながら、「間に合わなかった」ケースの一つが、冒頭の宮谷である。宮谷と松田修はある時期、家族の近況を伝えるような交流をしていたことが、松田修資料から明らかになった。整理担当者として、また「日本近代文化史」研究者として、資料の紹介とともに、簡単な位置づけを試みたいと思う。


 現時点(2022年8月)で確認できる宮谷一彦関係資料は、以下の通りである。


0.封筒「宮谷一彦 “スーパーバイキング” 1982~1983 ヤングジャンプ連載」

1.松田修宛宮谷一彦書簡13枚 1984年1月頃、および同封筒「宮谷一彦資料」

2.コピー「性触記」(COM増刊号)1971年 虫プロ刊、あとがき、インタビュー(昭和46年6月3日記)pp.262-263

3.コピー 岡崎英生「修羅生誕の経緯」(宮谷一彦『俺たちの季節』解説 1971 三崎書房刊)、

4.コピー 斎藤次郎「俗悪とその誇り―宮谷一彦論」(『共犯の回路』 1973 ブロンズ社発行pp.221-224所収、初出1970)

5.「宮谷一彦インタビュー」『Fusion Product』1980年度決算号 pp.208-209。

6.宮谷一彦著作目録(1967~1982)12枚、「宮谷一彦作品集」(1971~1980)8枚 *直筆


 1.の書簡の内容から、宮谷一彦と松田修の出会いは、1983年頃と思われる。「先日はながい御時間をありがとうございました。先生の暖かくウィットに富んだお話しぶりを待ち望んでおりました」と始まる。夫人にも「向度も繰り返し語ってきかせました」という言葉からも、宮谷が松田へ抱いた親しみの深さを窺わせる。

 「彼女も楽しみに待ちおりました上京を今回は見送り二人共残念な思いで新年をむかえております」「失礼を御許し願いますとともに又の機会に是非とも御目通り下さるようお願いします」とあり、宮谷夫妻の新年の上京に合わせて、松田と会う計画があったようだ。

内容については、現存人物に関するきわめてプライベートな内容も含まれるため、詳細は省くが、宮谷の親族の一青年の5年間にわたる更生物語が写真とともに綴られている。

 1971年、宮谷は大物右翼の長女と駆け落ち結婚をしたとされるが、この書簡に添付された写真からは、岳父とも関係が改善し、家族の交流を持っていた様子が伝わってくる。

「失礼とは思いますが、先生にお目にかかれました喜びの後の稚気と御笑覧願い一見下さいますよう」と結んでいる。


 宮谷一彦の商業誌デビューは雑誌『COM』(2)1967年5月号掲載の「ねむりにつくとき」である。『COM』は手塚治虫が1966年1月に創刊した雑誌で、「まんがエリートのためのまんが専門誌」と銘打ち、虫プロの出版部門であった虫プロ商事から刊行された(3)。同誌は『ガロ』に刺激されて手塚が創刊したこともあり、前衛的な作品が掲載された。また、読者層を男女に限定しなかったため、後に「大泉サロン」を形成する竹宮惠子も同誌でデビューを飾っている(4)。また、いわゆる「トキワ荘伝説」の形成には、同誌に連載された「トキワ荘物語」が一役買っている(5)。


 6の.宮谷一彦著作目録(1967~1982)と「宮谷一彦作品集」(1971~1980)は雑誌掲載作品と作品集(いわゆるコミックス)の一覧で、直筆と思われる。前者は『ヤングジャンプ』1983年1月13日号掲載の「スーパーバイキング」まで、後者は1980年刊行の『人魚伝説』上・下(ブロンズ社)までが記載されており、本人によるドキュメントとして、今後の史料的価値が期待される。


 2.と5.は、1971年と1980年の宮谷のインタビュー記事である。また、3.は2.のインタビュアーでもある編集者岡崎英生(1943-)が『俺たちの季節』の解説文として寄せた宮谷論、4.は教育評論家でもあり、漫画評論家としての顔を持つ斎藤次郎(1939-)による宮谷論である。

 宮谷との交流を得た松田が宮谷一彦論の構想を抱き、その資料として保存・収集していたと思われる。松田修の著作目録を見る限り、それは実現しなかったようだ。膨大なアーカイブの中に眠ったまま、ようやくその存在が明らかになった直後、対象者である宮谷一彦は亡くなった。

 近年、宮谷が活躍した時代も歴史化が進み、研究対象となりつつある。漫画家のいしわじゅんは宮谷を「日本の漫画に大きな影響を与えた人だった」と評し、3人の巨大な変革者として、手塚治虫、宮谷、大友克洋の名を挙げている(6)。その業績の検証は始まったばかりである。“異端の国文学者”と“日本の漫画の変革者”、二人の交流の軌跡が幾何かでもそれに寄与することを願って、擱筆することにしたい。



(1)平井倫行「須永朝彦の紋章学 歌川国芳《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》と辻惟雄『奇想の系譜』を中心に」『ユリイカ』779号 2021.9 青土社発行pp.239-248所収。

(2)澤村修治『日本マンガ全史』 2020.6 平凡社新書pp.187-191。

(3)中川右介『1968年』 2018.9 朝日新書p.134。

(4)中川右介『萩尾望都と竹宮惠子』 2020.3 幻冬舎新書pp.108-128。

(5)中川右介『手塚治虫とトキワ荘』 2021.5 集英社文庫pp.482-508(初出2019)。

(6)いしかわじゅん「漫画を読んだ 時代を追い越す」(『毎日新聞』2022年8月7日朝刊)。



小寺瑛広(日本近代文化史・松田修資料アーカイブ事業学芸担当)



 令和3年(2021)12月21日、私にとって初めての本となる、島村直子氏との共編著『カドミューム・イェローとプルッシャン・ブリュー』が刊行の運びとなった。

 思えば不思議なご縁で成った本である。私は一応(?)文献史学に属する日本近代史/文化史を専門領域としているはずなのだが、日本近代美術史の本を出版してしまった。島村洋二郎という画家じたいがある種の「奇妙な物語」を有しているが、今回の出版の経緯もまた、数奇なドラマ性を帯びている。いささか楽屋オチのような気がしないでもないが、その舞台裏を記録に残しておきたいと思う。


 私が画家・島村洋二郎を知ったのは、2015年6月。たまたま勤務先に洋二郎の甥・宏之氏がいて、「伯父の作品を展示します」というお誘いを頂いたのがきっかけだった。当時の私はようやく日本近代美術史に関心を持ち始めた頃で、当然洋二郎の名前も、師・里見勝蔵の名前すら知らなかった。7月20日に新宿の「ル トリアングル」に足を運び、《忘れられない女(屋根裏のマリア)》など数点を目にしたのが、彼の作品との出会いとなった。この時、宏之氏から姉直子氏を紹介されたが、まさか6年後に共編著を出すことになろうとは、全く想像すらしなかった。

 その後、3度にわたって直子さんの開催する島村洋二郎展で作品を目にする機会に恵まれた。洋二郎作品は一度目にしたら強烈に記憶に残る力を有しているものの、同時代の美術作品とは一線を画した作風ゆえ、私自身それらをどう理解して良いのか、俄かに判断がつかなかったのもまた、事実であった。けれど、直子さんの「伯父を後世に伝えたい」という熱い思いに触れ、自分に何かできることはないだろうか、と頭の中で模索するようになった。


 今回の書籍化の話が初めて出たのは、2019年5月17日であったと記憶する。その日、直子さんと弟の宏之氏との食事会の席で、これまでの活動をまとめたい旨と、監修と解説を私にお願いしたいという話があり、即座に快諾した。この日、かなり前に私が新聞紙上で洋二郎作品《少年と猫》を目にしていたという「偶然」の発覚も、その決断を後押ししたのだった。ただし、私が「総論」を書くという発想は、この時にはまだなかった。


 2019年中に直子さんは展覧会リーフレット掲載文や作品解説、新聞記事、ギャラリートーク、手紙やメール、書評、エッセイなどをワードデータに入力し終え、私が翌2020年初頭より、掲載誌との照合と校注作業に取り掛かった。


 合わせて、同年3月より島村諸家所蔵資料をお預かりし、デジタル化と目録作業を開始した。ちょうどこの作業中にコロナ禍に見舞われ、週1回の出勤以外は自宅待機となっていたため、デジタル化作業は大いに進んだ。一方で、目録化は悩みながらの牛歩作業であった。というのも、一次資料と二次、三次資料をどう分類するかで自分自身でも方針が大きく揺れ続けたのである。内容も、島村家に関係するものと、洋二郎に関係するものに大分され、より良い分類方法の模索は、相当長く(実は発刊後まで)続いた。


 本の構成について直子さんと意見を交わすうちに、洋二郎がどういう人であったのかを良く知る人でなければ、内容が理解できずに手に取ってもらえないのではないか、という思いが頭をもたげてきた。それに、洋二郎作品を後世に伝えていくためには、きちんとした研究をもとに美術館や研究者、美術愛好者に対して発信していく必要があると考えたのである。そして、一次資料はじめ関係資料を自由に読める立場にあり、必要とされる研究水準を理解しているのは…私しかいない。ここに至って、私は「総論」を書くとの決意を固めたのである。


 2021年に入り、未知谷から出版していただけることになり、いよいよ「総論」をまとめなければならない状況に「追い込まれた」。この間、何もしていなかった訳では決して、ない。冒頭と最後は既に原型があり、どう洋二郎の人生、そして資料と向き合うかの模索を続けていた。私の中には、ひとつの指標―恩師・小池寿子の仕事「戸嶋靖昌 存在の地層」(執行草舟『孤高のリアリズム 戸嶋靖昌の芸術』 2016.3 講談社エディトリアル所収)があり、方法論の面で大いに意識して、構想を練り続けていたのである。後にわかったことだが、戸嶋と交流があった画家・麻生三郎のアトリエを洋二郎が訪問していて、間接的に繋がるとは、その時は想像すらしなかった。


 だが、出版社が決まり、出版スケジュールが始まった以上、残された時間は多くない。覚悟を決めて書き始めたものの、進捗は遅い。

 4月30日時点でようやく第1章と第5章をまとめたものの、第2~4章は資料もそれなりに多い上、それぞれの記述が微妙に異なっていたため、「史料批判」が必要になる。公的な記録や、洋二郎の手による間違えようのない一次資料と、事実ではあるが記憶や回想というやや曖昧な二次資料との整合性を確認する作業は、予想よりも時間がかかった。5月17日時点で第2章の1(画家時代第1期)を書き上げた。


 それにも増して私が苦労したのが、作品論である。恩師の教えもあり、多くの美術作品を目にする機会を努めて作ってきたこともあり、「感覚的」には脳内で作品を理解しているつもりではいるが、それを他人に伝えるのが大の苦手なのである。もともと「史学」の人間で、史料に書かれていることを分析し、論を組み立てるトレーニングはしてきた一方、作品を言葉に変換する訓練はしたことがない。むしろ、「自分には出来ない!」と思い、避けてきた分野でもあった。しかし、やるしかない。迷ったときは恩師の「指標」を読み、ある意味手法を真似てみる(恩師に到底及ばないことは百も承知で)ことで挑んだのである。そうして、苦闘の末に5月31日に第2章の2(画家時代第1期作品論)がまとまった。


 だが、まだ3章と4章が残っている。6月18日に第3章の1(画家時代第2期)を、29日に第3章の2(画家時代第2期作品論)を書き終えた。そして、最も資料と作品が多い第4章(画家時代第3期=最晩年)に取り掛かった。途中、それまで言われていた展覧会出品歴と、当時の出品記録が一致しないという大波乱があり、コロナ禍で入館制限のあった東京都現代美術館美術図書室や東京文化財研究所資料閲覧室の予約を取っての確認作業に追われた。そのため第4章の執筆期間は想定以上にかかり、7月中に完成させることは出来なかった。7月29日時点で亡くなる4年前までを仕上げ、その後も1年刻みで評伝部分を書き進めた。最晩年の作であり代表作でもあるクレパス画の作品論は難産となり(ただし、苦しんだだけの発見はあった)、ようやく8月17日に脱稿した。


 約2週間ごとに原稿の続きを入れ続ける生活が約4か月続いたわけだが、「多重債務者」ってこういう気持ちなんだろうなあ…と、感じたのを憶えている。私のこれまでの原稿の中で、最も時間がかかったのが、この「総論・島村洋二郎」である。


 ともあれ、洋二郎の37年間の生涯を駆け抜けた。評伝を書くということは、その人の人生を伴走することなのだと、改めて思う。良くも悪くも、その対象人物に引っ張られる。例えば、洋二郎の入院中に家計を支えるために働き、見舞いになかなか来れない妻に対する想いを記したノートを読んだとき、その「重すぎるラブレター」に気持ちをやられたことを思い出す。これはある意味、役を演じる役者にも通じるかもしれない。


 また、逆に檄を飛ばしたくなる瞬間もたびたび訪れた。結婚して家族を養う立場になった洋二郎は、旧制高校同級生の兄や、先輩である福田恆存に紹介された仕事(国際文化振興会、日本語教育振興会)に就くが、どちらも短期間で辞めてしまう。洋二郎は家族や友人など、周りの人に大変恵まれていた人で、他人事ながら「なんでこのチャンスを!!」と憤ったりしたものだ。がっつく私とは異なり、洋二郎は自分がどうしたいか、でしか動かない。身近な人は大変だったとは思うけれど…。


 たまたま脱稿時点で私が38歳で、時代は違えど洋二郎とほぼ同年生きてきたこともあり、おおよその出来事や葛藤は通ってきた道でもある。時に共感し、時に反発しながら、島村洋二郎の一生を書くという貴重な機会を与えてくださった島村直子さんに、改めて感謝したい。


 2021年12月16日、刷り上がった本が届き、手にした時の感動は一入であった。その後、2022年3月21日には松戸市民劇団のご厚意で、講演会が開催された。本では叶わなかったが(主に予算面で)、洋二郎の作品と、彼が影響を受けた画家の作品と並べて比較することで、80名近い聴衆の皆さんに洋二郎作品の魅力を伝えようと試みた。会場には直子さんのご厚意で、私が選んだ5点の洋二郎作品が展示された。また、各時期の洋二郎の詩を3点選び、その時期の洋二郎の心境を象徴するものとして、講演中に劇団員さんに朗読していただいた。普段の展覧会の企画とは違った演出が出来て、これも貴重な経験となった。主催の松戸市民劇団の皆様にも、改めてお礼申し上げたい。


 最後に白状すると、講演の構想も恩師の講演「存在の地層―邂逅と回帰」から多大な影響を受けている。今回、恩師から受けた学恩は計り知れない。評伝を書く際に用いた史学的方法論を鍛えてくださったもうひとりの恩師にも。

「小池寿子先生、千々和到先生、ありがとうございます」 小寺瑛広(日本近代文化史・松田修資料アーカイブ事業学芸担当)

bottom of page