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 ミムジー・ファーマーという俳優を初めて知った時、小麦色の肌を激しく照らす真っ白な残酷な陽光の中で開いたビー玉のような瞳に、ふとデヴィッド・ボウイの影を見た気がするのは、なぜだろう。短く輝くが艶は感じられない不思議なブロンドと中性的な顔立ちのほかに理由はあった。『渚の果てにこの愛を』日本リバイバル公開版のポスターはミムジーの顔写真が大きく大胆に使用されており、その瞳は確かにこちらを向いていながら、彼女は何もない場所を——穴ぼこを見つめているのだと、そして僅かにひらいた桃色の唇は語ることはないと言いたげだ。美しく、それは恐怖を感じさせる魅力を持つ人たちがいる。冷たい炎を宿して瞳孔が開いているような、狂気を完全に味方につけて、歪で破滅的な舞台へその瞬きで、口付けで、笑顔で気に入った者を誘う恐ろしく美しい人、ミムジー・ファーマー。マリアンヌ・フェイスフルの可憐でおぼろげな魅力とも、“リリス”を演じたジーン・セバーグの夜の湖に接吻するミステリアスさとも、ミア・ファローのコケティッシュさとも異なる。その肢体と表情とはどこかあっけらかんとして、それでいて太陽が威力を発揮する場所でもその明るさを体内に吸収して独自の迷宮を作り出してしまう、深く生々しい艶っぽさがある。

 ミムジー・ファーマーは1945年、シカゴに生まれハリウッドで育った。映画に出演するもなかなか芽が出ず、一時期ハリウッドを離れてカナダでLSDを使ったアルコール中毒者の治療を行う病院で看護師を務めたことも。それからヨーロッパに渡りジョルジュ・ロートネル監督作品『MORE/モア』に出演、その激しい描写でセンセーションを巻き起こす。『渚の果てにこの愛を』はその後に製作された。物語の舞台は“どこでもない場所”、荒涼とした名無しの大地で繰り広げられる、変わった顔の恋の物語はジェーン・バーキン演じる『ジュ・テーム・モワ・ノン・ブリュ』にも通じる(本連載でも以前ご紹介した『ジュ・テーム〜』に出演したジェーンは、ミムジーと同じくショートカットで中性的な魅力を放つ)。だが、ジェーン演じるジョニーが愛憎入り混じる男たちの絆に翻弄され、最後は裸体という完璧に無防備な状態で荒野に曝されるのに対して、ミムジー演じるビリーはヴェールも何も無い太陽が燦々と輝く場所で波と戯れ、常軌を逸した瞳と笑顔で見える白い歯とによって物語の覇者となってみせる。それは、目をつけた男と自らをも破滅へ誘うことを決意した、死際直前の恍惚を肌の内側に秘めた女の、ある種の余裕である。“死の天使”という表現が似合う危うい女、それでいて健康的に乾いた舞台が似合う、なんともアンビバレンツなこと。物語において、ミムジー演じるビリーはその場所に訪れた若き旅人ジョナスを兄さん、と呼ぶ。彼女もその母も家出した兄/息子、ロッキーとジョナスを混同しているのだ。いくあてのないジョナスは訝しいままに街でビリーたちと過ごすことになるが、ある時彼女と関係を結んでしまう。本作はビリーの見る“幻”と欲望がひとりの男だけではなく、街を、物語を蝕んでゆくミステリーである。確実に終わると、終焉という名の破滅を知っていながら子供のように無邪気に戯れ、太陽に負けない笑顔を見せ続けるビリー。亡霊を求め、愛する男の影を重ね、生身の男を欲する女の特異な力強さ、正常なまま見ることを決め込む狂気の白昼夢、本作の無比の異常さはそこにある。

 ミムジーはその後もヨーロッパで映画に出演するが表舞台からはきっぱりと離れ、現在はハリウッドで美術、造形担当として数々の大作に携わっているという。自分の人生を歩み続けているひとりの女性はその瞬間だけ“死の天使”の仮面を被り、私たちに永遠に癒えることのない、秘密にしたくなるような傷痕を刻み付けてくれたのだった。


(和泉萌香)

 君のモデルたちにこう言うのは馬鹿げたことではない――「あなたの在るがままの姿に、あなたを新しく創造してあげましょう」と(ロベール・ブレッソン著「シネマトグラフ覚書」より)。

 手のひらが、指先が。モノクロフィルムの中に現れる銀色の指が、カラー映像の中で現れる白い指は魚の腹を連想させるくらいに冷たく、生きる人間のものなのか分からないほどだ。無表情、仏頂面、役者を「モデル」として扱うブレッソン監督作品の人物の顔は、そのストーリーも理由だろうが皆「無表情」とは言えど眺めれば眺めるほど哀切で寂しいが、艶かしい。苦悩し、葛藤する人々へ投げかけるカメラの眼差しというのは背徳めいた官能がある。フランソワ・トリュフォーはブレッソンの『たぶん悪魔が』をまるでトランプカードのようにほっそりと美しい男と女が次々に登場する点から、その重苦しいテーマを横に置き「官能的な映画だ」と述べたそうだが、筆者もまた『やさしい女』『白夜』などのブレッソン監督の映画にはガラスケースに閉じ込められ、その舞台の為に生命を持ち輝き、上演が終われば微かな呼吸を持つ存在に戻る人形を愛でるような、冷酷で孤独な悦びを感じる。男であれ女であれ生身の人間から一切の血を抜き取り操り人形と化けさせて動かす、美を封じ込めておきたいという禁忌的な願いが映された「モデル」たちの顔だが、『やさしい女』で若き妻を演じるドミニク・サンダの顔は夫からも、我々鑑賞者も決して近づけやしない「距離」を浮かべている。誰も所有することのできない女の顔、ここではない場所、映画内の世界での居場所が養うことのできない威力を持つ女の顔、映画の中の酸素に溶け込んでしまう、透き通った曖昧さでできた顔と肉体を持ったひとである。  窓が大きく開け放たれ、椅子が揺れ、白いストールが宙を舞う瞬間の全てが凍りつくような、映画はこの数秒のために用意されたのだと納得せしめる戦慄のシークエンス。場面はあっという間に変わり、紛い物の血の横に倒れる女が映し出される。浮かび上がるストールは海で舞うリュウグウノツカイを連想させるくらいに印象的だ。残された夫は彼女との出会いから軋轢が生まれ妻が自殺に至るまでを家政婦に聞かせる(ドストエフスキーの原作短編では夫によるモノローグが延々と続く形になっている)。モスグリーンのコートに身を包み、くすんだブロンドの髪を垂らして金を受け取るドミニク・サンダは、獣臭い官能を携えたカトリーヌ・ドヌーヴの魅力とも、ガラスの破片が似合うマリアンヌ・フェイスフルの退廃的な魅力とも異なる、操り主を凌駕、驚愕させる人形、俗世間の中で自分の肉体という聖域に閉じこもる術を知る「恐るべき子供」とでも言うべき輝きを備えている。サンダが演じる貧しく若い女は質屋の男に生活や金銭面などなど押し切られる形で結婚するが、女は多めに見積もって客に金を渡す描写もあるようにそういったものにはさほど価値を置いておらず、本や絵画、音楽、演劇といった芸術や「動かぬ死せるものたち」に愛着を示している。堅実な生活という言葉の下にじわじわと首を締める抑圧を滲ませる男と、芸術への愛という翼を持った女が共に歩む日常など、難しいに決まっている(スプーンの音だけが響き渡るスープを飲むシーンの、なんと気まずく息苦しく恐ろしいこと!)。映画では執拗に扉が開閉するシーンが差し込まれ閉塞感を増長させるが、彼女が身を投げる(た)シーンのみ、大きく窓が開け放たれ、彼女の「生活」からの解放を示す。宙に舞う白いストールは、持ち主を失った翼の揺蕩なのだ。  人を愛するとはどういうことか?  幸せとは何か?

 (アニエス・ヴァルダの映画『幸福』でも花が印象的に使われているが、本作でサンダは花束を無造作に捨ててみせる。彼女は鮮度が高いだけの「幸せ」の欺瞞を知っているのだ)  愛と生活は共存し得るのか?  我々は恋、愛という謎を決して解明することはできないだろう。愛がもたらす美しさ、悲劇を解明することはできないだろう。愛、穏やかな愛、やさしい愛が存在すると明確にすることだって永遠にできないだろう。もしくは解明してしまったら、世界はこれまでよりもたやすく、つまらないものになってしまうかもしれない。彼女が身を投げた明確な理由や心情は想像しつつ厳しくは探らずに、愛や生活の残酷さや人間の心の震えを思いながらそうっとしておこう…彼女は我々が追いつくことのできない問題への解像度が高かった、素晴らしく「やさしい女」なのだから。


(和泉萌香)

 アドルフォ・ビオイ=カサーレスの「モレルの発明」が好きだ。現実においてある特定の瞬間を生き直すこと、ある特定の時間と空間での永遠の生への希求は叶わないが、今の時間を放棄して命を「記録者」に託してしまいたいというのは、多くの人々が内に秘めた願いであるだろう。科学者モレルは恋が実らなくても、宿命の美女と共に永遠に在り続けるために、自分の身体もフィルムの中に閉じ込めてしまった。その世界では確かにひとが生きているに違いないのだ、影のひと、影の悦び、影の哀しみ、交わし合う眼差しと言葉とがあり、死者の冷たさをたたえたままに、人工の月のしたに生きている。そこに生は無い。温もりは無い、灰色の世界においてのみ、時の反復は許されるのだ。映画が瞬いたなら記録は今一度再生され、映画が吐息を漏らしたならばフィルムの傷痕の裂け目から、もう一度時は呼び起こされる。もう終わってしまった出来事――終わってしまった生、終わってしまった死、それに愛、例え世界が滅びた後だって、秘密を抱えて微笑む海や湖畔を味方にして、フィルムは回り続けるに違いないのだ。無人の月夜に、再び亡霊は現れ、また自らのフィルムの裂け目に消えていく。ホセ・ルイス・ゲリン監督作品『影の列車』の、夜を超越した白昼夢のような、蒼色に覆われた、詩人が夢見るやさしい世界の涯のような場所、そこで映画カメラで撮影をしている人物ジェラール・フルーリが消えてゆく冒頭のシークエンスの恐るべき美しさはなんだろう。

 1930年代、パリの弁護士ジェラール・フルーリがル・テュイ湖周辺の風景を撮影し終えるための光の条件を探していたその日に死亡、その数ヶ月前に彼は家族映画を撮り終えていたが、それが遺作となった。劣悪な条件で放置されていた後に映画は修復。そのようなテロップから映画『影の列車』は始まる。フルーリが撮っていた(とされる)傷みの激しいモノクロのフィルムが再生、時折カラーの映像に変わり、フルーリ一家がかつて遊びにきた廃墟や住んでいた屋敷の映像も映し出される。そしてまた古いフィルムへと切り替わり、一家に秘められたドラマがこの記録を見つめる「第三者」によって少しずつ解き明かされていく。謎めいた物語の要素も魅力としてありつつも、フィルムの傷みとされる閃光、影と光、無人に近い鮮明なカラーの世界と、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、シェーンベルク『浄められた夜』(ゲルンは当初本作のタイトルを、『清められた夜』とすることを考えていたそうだ)など、引用されるクラシック音楽の呼応を堪能するものである。

 『清められた夜』という当初予定されていたタイトル、月と湖畔の象徴的なシーン。全ては、映画は月光によってできた影の蕩揺によってできている。本作は非常に「夜」の顔をしている。例え彩られようとも、静謐に静まりかえった、生きる者は姿を隠し息を潜め、かたちを持たずに時を飛び越えて逍遙する者たちが生きる「夜」の世界である。灰色の、セピア色の世界に閉じ込められた者たちが、束の間の間色を取り戻し、決定的と言える瞬間を演じ直すときのどこか切迫した表情。鍵となる女性の顔を何度も何度も、フィルムに託した記憶を追うのは第三者であり、この映画そのものだ。映画の記憶。死者である女性/影として永遠の迷宮を生きる女性を呼び覚ますのもまた映画である。

 過去の(あったとされる)出来事、思い出と、それを呼び起こす時間があることによって生じる、曖昧で掴みどころのない「記憶」。その「記憶」の持ち主がいなくなった時に再び息吹をあげる瞬間というのは、死者たちによって舞台が召喚される様子というのは、そしてそれを目撃した時には、私たちもまた影の列車への切符を渡され、秘密の王国へ招待されるに違いないのだ。映画の最後に幽霊のジェラールは、口笛で『舟歌』を吹きながら霧の中、ボートで漕ぎ出してゆく。フィルムが終わる一瞬に、巻き戻される瞬間に、フィルムのパーフォレーションに、私たちは記憶が生成され、時間が止まる時を垣間見る。あなたがいなくなった後も、どこかでそれは続いていく――『影の列車』は過去と現在の狭間、生と死の狭間に身を横たえる映画、不安と陶酔、蕩けるような美しさに満たされた、あなたも誰も知ることのない、映画の涯から手招きをする「映画」なのである。


(和泉萌香)

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