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 TOKYO Olympic。東京オリンピック。おそらく誰もが毎日(聞きたくもないのにだ!)耳にしているであろうその言葉、その単語には並んだOが二つ。じめじめと陰鬱な街に掲げられた巨大な広告では、まだ東京オリンピック2020のまま。ぽっかり穴があいた文字面、空洞は不条理な現状と猥褻極まりない権力の横行に怒り、唖然とする者たちの心をせせら笑うかのような冷徹さ、声を無にねじ伏せてしまうかのような、薄気味悪いブラックホールの顔をしている。Oが二つ、虚無が二つ。国、都市がゆっくりと腐敗していく様を定点カメラで観察する者は一体誰だろう? もしかすると、いつしか腐乱の過程そのものに取り憑かれ、終焉のその先――何もかもが終わったあと、存在するかも分からない膨大な虚無に取り憑かれてしまうこともあるかもしれない。ピーター・グリーナウェイ監督作品『ZOO』の双子のように。醜い狂気が最も蔓延すると言っても過言ではないだろう今月は、腐りゆく生物を挑発的に、ちょっぴり歪な美学で観察した本作を取り上げたい。

 冒頭の鮮烈なイメージで誰もが、死が放つ匂いにきらびやかで有毒な、蠱惑的な魅力を植え付けてしまった本作に唖然とし、捕らえられてしまうことだろう。雌の白鳥と激突した自動車にはぐったりと動かなくなった女性が三人、夜に光る瀝青には白い羽根が舞いガラスの破片が散らばり、背後には火花が散っている。奪われた生命のかけらの刹那的なイメージ、マイケル・ナイマンによる好奇を駆り立てる独特な音楽と、剥製が並ぶ部屋で呼応する点滅するライトのシークエンス。妻を同時に失った双子、動物学者のオリバーとオズワルドは動物園の研究所でリンゴから白鳥、シマウマと、延々と生物の腐敗を撮影し見入るようになる。そしてしまいには彼ら自身も肉体に毒を打ち、カタツムリに覆われながら自然に回帰してゆく・・・蠅がたかり、空っぽの眼窩に蟲が蠢き、朽ち果てていく獣たちの死骸へ投げかけられる眼差しは、グロテスクというよりも静謐で、挿入される生きる花片やカタツムリの湿っぽいイメージは非常に官能的だ。ピーター・グリーナウェイ監督は双子の映像作家、ブラザーズ・クエイの存在にインスピレーションを受けて本作を製作したという(監督はクエイ兄弟に出演を依頼するも、残念ながら断られている)。同じく双子の兄弟の物語、デヴィッド・クローネンバーグ監督『戰慄の絆』では双子がふたりでひとりであることを悟り、禍々しい紅の手術室を離れて蒼然の夜が覆う、子宮を思わせる部屋で死んでいくが、本作『ZOO』での双子ははっきりと、生まれた当初は結合双生児だったことが描かれている。並行する腐りゆくものと進化する生命のイメージ、自分たちにとっての均衡を知り、“全て”がそこにある舞台で無へ帰してゆく人間の姿は、『戰慄の絆』と同様に美しく、ある種のカタルシスを残す。「死体を彩る美しい肉は朽ち果て、鉄の足と骨だけが残る」そうして肉体が腐ったあとも、カメラは回り続ける。ウィリアム・バロウズは「死の写真を撮ってこい」「作家は記録する機械だ」と書いたが、自分の死まで記録したいと願うのは、全ての作家の性なのではなかろうか。『ZOO』で描かれる腐敗の記録、ブラザーズ・クエイ『ストリート・オブ・クロコダイル』にみられる艶かしい身体を思わせる廃虚。鉄筋という骨、液晶パネルの皮膚、煩雑な情報が血管を駆け巡る現代の都市もまた、未曾有の感染病と人為的な病によって衰弱した顔を見せている。我々が住む都市の急速な腐敗は、映画のような審美性には些か欠けているが、腐りゆき鉄の骨と嘆きが満たされるであろう、都市という身体へ定点カメラを向け、感傷も捨てて醜悪も何もかも記録することは、言葉や文字を持つ我々が今するべきことのひとつなのかもしれない。


(和泉萌香)

 「あらゆる理性的な思考を殺せ。」


 ブラウンのスーツにストライプのシャツ、中折れ帽。真にヤバい人間ほどスタイリッシュな装いに身を包んでいる。セットアップや革のコート、パリッとしたシャツにベスト。『裸のランチ』原作者ウィリアム・バロウズの写真は、その無表情で灰色の肉の顔面からは死の国からやってきた害虫駆除業者——もしくは探偵、殺し屋みたいな得体の知れない恐ろしさが滲むもハードボイルドで格好いい。黒ムカデの肉はじめ諸々珍妙な品々が並ぶ異境、このインターゾーンに棲まう作家たちは、砂埃をのせた風が愛撫する猥雑な灼熱の地にすっかり滲む、土色の洋服を纏い煙草とすかすかのプレッツェルを片手に記録し続けている。虫の死骸入りの琥珀の底で燻らせる煙と殺虫剤で映画はできている——小便の色の壁と薄めたアブサン色の室内は、祖国や友人からも離れて訳も分からずにタイプを打つ作家にお似合いだ。座りこむ砂か灰の山はもしかしたら彼らの内部かもしれない。骨かもしれない。血肉かも知れない。そんな風に映画『裸のランチ』は飄々とした虚無で、二十世紀最大の影響力を放つ小説の一つとなる物語を書く過程にある男を見つめ、作家たるもの大きな犠牲を払わねばならないだとか、孤独を味方につけねばならないだとか、そんなことは当たり前だというように感傷を突き放し、掠れた肌に突き刺す注射針の先端で宙ぶらりんにしてみせる。ピーター・ウェラー扮するバロウズ(ウィリアム・リー)の、未知の不安への慄きと諦観が同居した、乾きながら涙に濡れた死体の写真を撮るかのような表情! それこそバロウズに魅せられた者たちの砂漠に生まれしカメラの表情だ。ムカデを駆除剤まじりの吐息で殺すときの、なんという舌舐めずりの層で構成された高揚だろう(余談だが、現在のクローネンバーグはその“危険な老人っぷり”の風貌と佇まいがますますバロウズに似てきている)。

 デヴィッド・クローネンバーグはウィリアム・バロウズによる、恐ろしく興味深い凍結した瞬間のモンタージュ小説『裸のランチ』を、執筆活動における危険性と影響、書くということはなんたることかという映画に翻案してみせた。原作で描かれているヘロインやマリファナをブラック・ミートなど架空のドラッグに置き換えているのは、バロウズが『Everything is permitted : the making of Naked Lunch』に寄せているように神業と言っていいだろう。

 「病的速記で書かれた言語道断な精神毀損を告発する断片的な礼状の執行者」「肛門をしゃべるようにした男のことは話さなかったかな?」原作のバロウズ節が効いた台詞の挿入が魅力を強調し、今行われている事実のみにスポットが当たり、肌に眼球にフィルター無くそれが突き刺さることへの戰慄を思わせる——『ザ・フライ』で蠅人間へと変貌してしまう主人公、『デッドゾーン』で身体に何も異常は無いが特殊能力に目覚めてしまった主人公。過激なイメージに支配され自らもグロテスクな環境の一部となっていく男が主人公の『ヴィデオドローム』。クローネンバーグ監督作品には常に肉体、精神の変容を遂げる人々があり、異形、異物との融合があり覚醒があり、破滅があり、世界の何ものとも相容れない孤独がある。だが自らの幻想と心中する『M .バタフライ』の男や潜在する自我を受け入れまるで胎内へ還っていくように死を選択する『戰慄の絆』の美貌の双子とは異なり、『裸のランチ』の主人公、ウィリアム・バロウズ=ウィリアム・リーは肉体を棄てやしない。これは死と中毒とが身体をすり抜けていった人間、自らをタイプライターとした人間の物語でもある。書くことへの姿勢を描いた物語という点で、無意識下で書くことの現れとして悶えるようにのけぞるようにキーボードが勝手に踊り始める描写、ジョーンとのセックスにタイプライターが参加しようとじたばたもがく様子などは、面白い。「作家は記録する機械だ」とバロウズは言う。「有毒な言語が俺の脳を麻痺させ」「言語に絶する恐怖を忘れない」全てを記録する、現在を記録する。決して書き直すことなくあること全てを記録する。「全てが許されている」深遠は荒凉とした口を広げて、作家を待ち受けている。

 バロウズは、奈落の底が寝そべる場を、現代の暗部に、内臓が剥き出しの言語で器用に掴みかかることをやってのけ、あらゆるギリギリのラインに探査機を降ろした。清潔なマスクを被っても、グロテスクで醜い現実ならば、誰かが決めた理性なんて唾棄して、挑発的な言葉を吐いてやってもいいんじゃないのか。映画『裸のランチ』言葉同士のセックス——筆者いらずの言語の奔流——未知の流行病が横行し、不条理がまかり通る現在、自らを機械として事実を直視し、醜悪や愚鈍を恐れ知らずの言葉とヴィジョンで告発する彼の“報告書”をいま一度読んでみようではないか。存在するかも分からないものに中毒した者の孤独と注射器を琥珀色の夢に封じ込めた、ちょっぴり悲しいこの映画と一緒に。


(和泉萌香)

 ある感傷を持つ者たちがいる。一度太陽まで舞い上がり、堕ちてなお生き続ける者たち、そのような宿命を持つ者たちが持つ感傷というのは冷たくてある種優しく、透徹している。彼はその星から落っこちてきた。水が枯渇した惑星から遥々落ちてきた、ニュートンという重力を感じさせる名前を名乗る男は、この世の全てが耐えられないというくらいに、少しでも腐敗や有毒に触れれば壊れてしまうというように酷く痩せ、薄い紛い物の皮膚に覆われて、アンドロギュノスな美に愛されて、無比だった。デヴィッド・ボウイ。デヴィッド・ボウイ。彼が火星に帰ってから、もう五年が経とうとしている。奇跡のような事件を、非現実を慕う気分の時を、不可解なことを、麗しい虚無に涙を流したくなる時に、その名を呟くように呼びたくなる。デヴィッド・ボウイ。永遠に世界を魅了し続けるであろう男、気の触れた男優は本作『地球に落ちてきた男』で、ノー・メイキャップの時に(怪しげな黄色の、爬虫類めいた瞳を現す前に)既に「彼は宇宙人だ」と納得させる説得力を持って登場する。

 ニューメキシコの湖に宇宙船が不時着し、男が駆け下りていく。彼は地球上に存在する水資源を持ち帰ることを目的とした宇宙人、トーマス・ジェローム・ニュートンだ。ニュートンはいくつかの科学的技術による特許をもとに会社を築き、巨万の富を得る。ニューメキシコを再訪したニュートンはそこでメリー=ルウという女性と出会い、彼女を通じてアルコールに溺れてゆく。だが資金も貯まって故郷に帰ろうとするも、彼はライバル会社の企みによって阻止され、ホテルに監禁されて数十年を過ごすことになる。故郷の妻や子供に会うことも無く…

 ウォルター・テヴィスによる同名小説を原作とする本作は、アメリカを舞台にニコラス・ローグ監督、ボウイはじめイギリス人たちが集い撮影するという、「そこを故郷としない者たちから見るアメリカ」という点で、ヴィム・ヴェンダース監督作品『パリ、テキサス』も彷彿とさせる。妻子を故郷に残してきたトーマス・ジェローム・ニュートンは、地球人メリー=ルウとのセックスに溺れるも、彼女の泣き顔に微笑みを浴びせ、それでいて傍にはい続ける、歪で乾いた愛を与えてみせる(口論の際に彼女に見せる笑顔は彼の鋭利な骨格が残酷に威力を発揮し、皮肉にもぞっとするほど美しい)。メリー=ルウとの同棲中に、いくつものテレビ画面の前に座り込みひたすら情報を追う、もしくはエンプティ・カロリーとして摂取するようになって痩せこけた容れ物と変貌するニュートンの姿は、液晶画面ひとつで何百もの情報を一度に得ることができるようになった、なってしまった現代人の虚さとも重なる。世界の器官となったテクノロジー。水しか飲みやしなかったニュートンはアルコールに溺れ、目まぐるしいエレクトリックのエクスタシーに身を委ね、異星人であり、堕天使の様相をなしてゆく。そうして堕落と崩壊の匂い漂う中毒に身を任せておきながら、いくら時が経とうと彼の姿は決して変わることなく、美しい。本人の意思と反しようが反しまいが、ただひとり美しいというのは、根本は何とも交わることのない/できない、異質なものであるということなのだ。映画にある、奇妙な浮遊感、どこか心の内側がつんと冷たくなり、がらんどうに放られるような心地——それは本作の根底に、底の知れない孤独が詰まっているからであろう。全編にわたり、堪えがたい孤独が物憂げにたゆたい、銃声や粉砕直前のレコードの音と共に不毛な日々が軋む(終盤、再会したメリー=ルウと拳銃を発砲しながらセックスに耽るシーンでの、一瞬映るボウイの萎えたままのペニスのように)。帰るべき場所が死にゆく運命と知りつつ、何もする術の無い者の抱えきれない虚無、「訪問者(ヴィジター)」であり続ける悲しみをうたった、脆弱な美に占められた映画なのだ。

 デヴィッド・ボウイは自らを「バロウズの一番弟子」なんて名乗っていた。デヴィッド・ボウイと、二十世紀アメリカのランボー、ビート世代を代表する作家、羨むくらいに好き放題に生きた作家ウィリアム・バロウズは映画が製作される前の1974年に対談している。ラストシーン、ボウイは細い身体をスーツで包み、中折れ帽をかぶってバロウズ・ルックを披露している。「のみすぎですよ」というボーイの言葉にがっくりと項垂れて、映画の中心には中折れ帽の空白が宙吊りになり、虚無が横たわったままに終わっていく。ウィリアム・バロウズ。妻を射殺し逃げおおせ、ありとあらゆる薬物で肉体を染め上げ、前衛のアーティストたちとコラボレーションし、自分もアートパフォーマンスを行い、だが晩年にはかえりみなかった家族を思って悔いた男。現代の暗部に自らを探査機たらしめて潜り込む業を得ながら、妻の射殺事件のことは書かなかった男。銀色のボディに仮の皮膚を纏い“人間”に擬態するニュートン、中毒者となったニュートン、宇宙の彼方に音楽を発信し続けるニュートンの姿は、少年時代「ヒツジを襲うオオカミ」だと級友の父親に言われた存在をやけにかっちりとしたスーツ姿に入れ、危険な文章を綴りながら、確かに孤独と感傷の尾鰭がついている、バロウズの姿にどこか重ならないだろうか。

 愛したことがあるかもしれない、だけれどその場所には帰れない。常に異境の地で放浪し続ける訪問者。イカロスたちの孤独はいくら悲しくたって透明だ。美しい虚無と共にある人間は、今日もひとりで酒をのむ。別れの言葉はいつも遅く、荒野に白馬の夢をみる。『地球に落ちて来た男』——がらんどうを逍遙し、笑みなき微笑みを浮かべて、アルコール色の時刻を享受したい時に最適の虚無の映画である。最後に、作者が本作にぴったりだと思う、ウィリアム・バロウズ作『ソフトマシーン』第三版、イギリス版の最後の一行をご紹介して締めくくろう。「彼は悲しそうにソフトマシーンから手をふる。死んだ指が煙のなか、ジブラルタルを指している。」


(和泉萌香)

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