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 ダニエル・シュミット監督作品、『ヘカテ』が2021年4月、デジタル・リマスター版でリバイバル・ロードショーされる。蜜がふくよかに詰まり、はちきれそうな暗闇、蝋燭の炎がゆらめく中で、格式高い装いの男女が言葉を交わし合っている。白いスーツに身を包んだ端正な男—フランスの二枚目俳優ベルナール・ジロドー演じる外交官ロシェルはある一人の女のことを思い出す。自分がかつて最も愛した女のことを—シャンパンの泡にオーバーラップし、海が映し出される、そのシークエンスで誰もが誘われるように、恐るべき愛の記憶へ溺れていくこととなる。『ヘカテ』の輝きは現代においていっそう強力であり、いかなる時代や国境にも定められることの無い、捕らえられることの無い魅力を発揮する。世界中の人間が同じ病への不安と恐怖を抱え、分断が殺伐と加速する、この時代だからこそ、極めて挑発的に、そして絢爛と、それこそ本作の“ファム・ファタール”クロチルドのように、大胆に微笑んでみせるのである。

 北アフリカに赴任し、倦怠な日々を過ごしていた主人公の男ロシェルはある晩パーティーで美しい女に出会う。彼女の名前はクロチルド。夫はシベリアにおり、一人この猥雑な香り犇く地で過ごしている謎の女である。あっという間に情事に溺れるようになる二人だが、ロシェルは奔放で心の内を一切見せないクロチルドへの嫉妬と疑念に苛まれるようになる。いわゆる男を翻弄する宿命の女、“ファム・ファタール”を見事に体現するクロチルドだが、『ヘカテ』は男女の恋愛物語というには奇異である。本作には、多くの作品に—芸術作品に通底する、“美の化身”との思いもかけない遭逢、というテーマが組み込まれていると言えるだろう。

 彼女は空っぽの女だ。しかし、本作で音楽を担当するカルロス・ダレッシオが同じく作曲を手掛けた『インディア・ソング』の主人公大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルのような、“空虚で満杯に満たされた、いささか感傷めいた“空洞”では無く、あっけらかんと、軽々と何もかもを超越していくような空洞を、愛の不毛を体現する女であり、非人間的なキャラクターとして、ロシェルを悦ばせ、絶望させる。“女神”...ミューズ。人は、一度会ったらば平伏せざるを得ないような人間、あらゆる人物を一緒にしたような人間(劇中の台詞で、ロシェルはクロチルドを「彼女は友達、ある時は恋人、そして愛人、情婦、貴婦人、そして娼婦のような女だった」と語る)「美の化身」と呟かせ、その存在という非現実的な事件、幸福に慟哭する…そんな人と出会ったらば、なす術はあるのだろうか。ルキノ・ヴィスコンティ『ベニスに死す』において、アッシェンバッハはタッジオに向い、手を伸ばすことしか叶わなかった(ローレン・ハットン演じるクロチルドは劇中で、タッジオのトレードマークとも言うべきセーラー服姿を披露している)。日本軍捕虜収容所を舞台にした男たちの関係を丹念に描く『戦場のメリークリスマス』では、ヨノイへその天使性を最大限に発揮したデヴィッド・ボウイ演じるセリアズが近づき接吻を浴びせた時、(意図的にでは無く)カメラが震えた。美の化身は誰のものになることも無く、多くの場合、こちらへ手を差し伸べ、愛するような素振りを見せることは無いだろう、だが『ヘカテ』において、クロチルドはロシェルに向かって“振り向いて”みせるのだ。何度も何度も、クロチルドはロシェルに向かって振り向く。神の化身がこちらを見つめるかけがえの無い喜び、そして身体を委ねる戰慄の幸福。蒼然の闇に浮かび上がり、自然に起こった風が女の髪をなびかせ、男が射られたようにそれを見つめる。パーティーでの出会いの一瞬が言葉を絶するほどに美しく、思わず「その為にだけ生きていたと言わざるを得ないような瞬間」と小さく呟いてしまうのは、“絶対的な美”との対面という、神話めいた出来事として託されているからであろう。だがそのような存在の所有は、人間には決してできやしない。後半、ロシェルはクロチルドの夫である男とシベリアで対面する機会を得る。同じ“女神”を愛し合った男たちの言葉少ななシーンが、あの欄干での蜜月の絶頂を知らせる場面を凌ぐくらいに、厳粛で美しい迫力を放つのも、本作の興味深い点である。

 ダニエル・シュミットは言う。「愛はそれ自体、ひとつの錯誤である。」と。人々が戦禍の話をすれども、彼が思い出すのは一人の女。例え自国がどのような状況下にあれど、泡ひとつでその記憶へと立ち返らせる、危険で甘美な“愛”。第二次大戦中のスイスのベルン、北アフリカと明確な時、場所を設定されながら、本作の舞台はいつのどこでも無く、無国籍である。愛は、壮絶な幸福に塗れた感情、体験というのはいつだって錯誤であるのだ。大勢が共に災いを経験するこの世相において、あの蕩けそうに流麗な映像と音楽にのせられ、身を引き裂かれそうに狂おしい“錯誤”を享受するというのは、なんと悶えるように背徳的で、幸福なことだろう? 『ヘカテ デジタル・リマスター版』

※緊急事態宣言および東京都における緊急事態措置の再発令を受け、5/11(火)まで休映。現在(4/27)、今後の上映やスケジュールは未定。


(和泉萌香)

ファンタジー世界を舞台にしたゲームには

ほとんどの場合モンスターが登場する。


モンスターたちはプレイヤーの操る

キャラクターの障害として立ちふさがり、

時には仲間になったりもする。


それぞれのゲームによって

モンスターの立ち位置は大きく変わるが、

ゲーム世界に欠かせない存在だ。


そんな脇役たちについて

ゲームを制作する立場から

思うところを書いてみたいと思う。



第二回は巨獣と呼ばれるベヒーモスを

叩き台として語ってみたい。


ベヒーモスは旧約聖書に登場する

地上で最大の体を持つ動物とされている。


なんでも創造神の最高傑作であり、

見事な姿かたちをしているらしい。


役割はなんと、最後の審判後の

正しき人々のための食料である。


しかし、地上最大の動物というフレーズが

ゲームデザイナーのイマジネーションを

刺激したであろうことは想像に難くない。


強大な力を持つ怪物として

様々な作品に頻出する。


さて、ベヒーモスは英語読みなのだが、

アラビア語読みではバハムートとなる。


バハムートは多くのゲームで

ベヒーモスとは別の存在として登場している。


最古のロールプレイングゲーム、

紙と鉛筆とサイコロで遊ぶゲームにも

善なる竜の神として描かれている。


食料から考えるとすさまじい出世だが、

こうした名前の拝借はままあることだ。


問題なのは、こうした神話生物の名前を

自作の怪物に名付けるオリジナリティではなく、

そうして生まれたモンスターが安易に

模倣されることが極端に多い点だ。


今や日本のファンタジーにおいて、

バハムートは竜の神や王、

もしくはそれに準ずるものとして

確固たる地位を築いている。


ゾウのような巨大な動物の怪物に

ベヒーモスと名付けても納得されるが、

バハムートと名付ければユーザーが

混乱するであろうレベルである。


バハムートは“すごいドラゴン”の

名前になってしまったのである。

これは最早カルチャーの領域だ。


ここまでになるとバハムートは

本当はドラゴンの名前ではない

などと言っても無粋なだけである。


個人的には使いたくない名前だ。

カラーが決まりすぎている。


この名前が陳腐化していると

考えるクリエイターは少なくないだろう。

しかし、わかりやすさを求める

プロデューサーやデザイナーは

こういった固定化された名前を好むように思う。


神話などの元ネタに準拠しているならいいが、

いわば二次創作作品の流用、

つまるところ三番煎じである。


多くのクリエイターは自分の

オリジナリティで戦いたいと

思っているだろう。


しかし、イメージの固定化された

既知の怪物を登場させた方が

圧倒的にユーザーフレンドリーである。


この兼ね合いが難しいところで、

例えばファンタジーの金字塔である

『指輪物語』で定義されたファンタジー世界の

住人たちの名前を使わなければ

説明そのものが困難になることすらある。


エルフやドワーフのイメージ。

民話や伝承とは異なるその姿が人口に膾炙し、

必要不可欠な要素となっているのは

知っておくべき文脈ではあるが、

クリエイターの怠慢という言葉が

頭をよぎってしまう。


若干逸れたが、今回の話の趣旨は

神話や伝承を一次創作とし、

そのアレンジである二次創作が

ゲームで活用されているものの、

三次創作となると怠慢ではないか

という私の個人的な考えである。


前述の通り、ユーザーのイメージしやすさは

大切な要素だ。


しかし、そこに胡座をかきつづけてはいけない。

そう、私は思うのである。



泉井夏風(シナリオライター)

更新日:2021年4月24日

 ポスト・ヌーヴェル・バーグの映画作家、フィリップ・ガレル。彼のインタビュー本「心臓の代わりにカメラを」において、レオス・カラックスはガレル監督作品『秘密の子供』(1979)についてこのように書いている。「大気が冷たい。カールのかかった髪を通し、男は女を見つめる。二人は一緒に震えている。映画が震えている」。まさしく本作は“震え”の映画である。風に揺れる木の葉、振動する窓、モノクロの画面に眩い暖炉の炎、自然が作り出す震えと共に、ある一組の男女の愛を捉えるカメラと、痛みと幸福で満杯となった恋人たちの身体は、アンヌ・ヴィアゼムスキーの天使性をたたえた巻き毛は、堪えきれないというように小刻みに震えている。永遠に痙攣し続ける愛の誕生と変容。「あなたの心はカメラなの」—フィリップ・ガレルの心=カメラは、恋人ニコとの別離を蘇らせた永遠の舞台において、悲痛に狂おしく震え続けている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの元メンバー、歌手のニコとの愛の記憶を描く本作は震えと眼差し、反復で構築された、ぱっくり割れた心臓から生々しく流れ出る涙の結晶であり、癒えない傷跡そのものが擦り切れた愛を見つめ直す映画なのである。


 ファトン・カーンの音楽で雄弁さを増す暗闇に、物憂げな眼差しが蝟集している。長く続く叫びよりもぞっとさせる、裂くような露光。想起される瞬間を生きる人々の、極めて私的な物語と映像には、写真が持つ、魂を抜き取る凄みを感じさせる。既に崩れてしまった愛、つぎはぎだらけの思い出のコラージュは、視線の指の間をすり抜け砕けてしまいそうに儚い。部屋の中に横たわる女がいる。男が見つめている。視線は交わり、再び離れる。彼らの視線の睦み合いは何度か反復される。ガレルの映画で、女たちはじっとシーツの上に身を投げ出し、瞼をつむり、慈愛と装置としての冷静さが同居した眼差しで抱擁される。ただ視線を交わし合う男と女、開け放たれた窓も眼前に広がる海の開放感も養うことのできない濃密な空間に、すぐ恋人同士だと汲み取ることのできる、なんと陶然たる画だろう。「あなたの心はカメラなの」劇中のその台詞の通り、ヴィアゼムスキーがその役割を担うかつての恋人を、彼女の子供を見つめるカメラ=主人公の視界は時折霞み、睫毛が震えるように揺さぶられるのだ。暗闇に溶けた男と女、確認することができるのは口付けだけ。雨の中傘もささずに座り込む二人。佇むだけの彼女に心は近寄り、全く同じシークエンスが反復する。『革命前夜』(1964)で若きベルナルド・ベルトルッチが別れを惜しみ抱擁する恋人たちの姿を反復させたように、その瞬間を凝固させたい、もう一度経験したいという沈痛な願いは映画によって達成されるのだ。しかし、カメラを心に、カメラを心にしてかつての恋人ニコとの愛を、パーソナルな愛の痛みを虚構の世界において反復するガレルの試みはある種の呪縛さえも嚥下したストイックさが感じられる。


 ニコの死後の1991年、ガレルは彼女に捧げる映画『ギターはもう聞こえない』を発表する。デニムジャケットを羽織る“本作でのニコ”マリアンヌに扮する、ヨハンナ・テア・ステーゲの眠る姿。ほの暗い海の下で燃える情熱と虚無で、全編に渡り息は詰まりそうだ。「男と海(ラ・メール)」という甘美な台詞から始まる本作は、『秘密の子供』とほぼ同じプロットを持つ。ニコとの物語は、ガレルの当時の伴侶ブリジット・シィに生活の倦怠を託して、再び語られ直すことになるのだ。だが同じ恋人との愛の変遷を描いた『ギターはもう聞こえない』と『秘密の子供』の魅力も、映画における眼差しも、決して同様では無い。「あなたの“目は”カメラなの」、では無く「心がカメラだ」と呟く映画監督の覚悟は、『秘密の子供』において、生々しい傷口と不安定な恋愛の機微とを抱擁する役割を果たし、「映画の痙攣」「映画の震え」という美と変わり威厳を発揮し続ける。モノクロの、極北の舞台で、恋人たちは回り続けるフィルムの中で何度も出会い直し、“現在”となり、永遠となってゆく。セルロイドで出来た恋人たちの“秘密の子供”へ注ぐ眼差しへおろす探査機もまた、震えているのだろうか。「二人は一緒に震えている。映画が震えている」。


(和泉萌香)

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