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 ふくよかな漆黒、視線に向けて眠りなさいと微笑むかの如く横たわった深く底しれず、そうして優しい漆黒に、赤銅色の炎が舞う。黄金色の輪郭を与えられて物憂げな横顔を晒す青年。水飛沫が非現実の美をたたえ煌めいている。炎があり水があり土がある。そんな荒凉とした地を彷徨い、金網に愛撫されるような孤独を携えた面持ちをする青年二人、厳しい岩場にて灯りを掲げて佇む。彼らは出会い、影と光が寄り添う中で接吻を交わし、肌に触れ、交歓は行われる。それがデレク・ジャーマン監督作品『エンジェリック・カンヴァセーション』(1985)だ。

 映画の中で“天使”と呼ばれる存在は、様々な形で姿を見せた。ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』(1987)では、天使たちは洒脱なコートに身を包み、分断された都市にて絶望と疲労を抱えた人々に寄り添う、人間にとっては不可視の存在であった。ケネス・アンガー『ルシファー・ライジング』(1972)においては堕天使ルシファーが光の運搬人であり、その復活が壮絶に描かれた。ジャン・コクトー『詩人の血』(1932)においては、虫のような羽をはやした黒人の天使だった。天使は人間に幸福や温もりを与える存在とは限らない。天使とはいったい何か。天使という言葉を投げかける存在はいったい何か。天使は天上と地上とを媒介する存在であり、人間性と非人間性の真ん中に位置している存在である。コクトーの言葉を引用するのなら、「天使、それは潜水夫の力強い動作と、千の野鳩のすさまじい羽音に似て、見える世界から見えない世界に飛んでいく、輝かしい、可愛らしい、力強く、若々しい動物だ」。そして「天使にとっては、死は不可解である。彼は生きている者を圧し殺す」。では、この『エンジェリック・カンヴァセーション』…『天使のような会話』と題された本作において“天使”とは何であろうか。この中での天使たるものは、悲痛なまでに繰り返される、愛、それは天使のように美の最も完全な状態をしていると信じ込んでしまえるくらいの愛なのではないか。

 本作を非常に美しい“愛”の映画だと思わせるのはシェイクスピアのソネット詩集の引用である。本作に台詞は無く、ジュディ・デンチのソネット詩集の朗読が随所に挟み込まれるだけである。「目を閉じている時私は視力を増す だが眠ると夢の中に君の姿を見出す」シェイクスピアのソネットに関しては多種多様な推論があるが、シェイクスピアが美貌の青年貴族に「私は君の奴隷だから、君の望むままに全ての時を捧げよう君のため以外の時間に価値はない」とまでうたい、詩の中で彼が永遠に生きるだろうと述べ、高揚し、至福を噛み締め、苦悩しながらも誠実を誓い続けるという切羽詰まっているくらいに狂おしい愛の詩集である。「私は君の奴隷だ」…平気で魂を奪い取るくらいの残酷さを持ち、その残酷の中にはある純真があり、跪かせた者に高貴な威厳を発揮させるようなもの…もし、それを愛と呼ぶならば、詩人は愛する者、愛する者への愛に天使と名付けるのか。そのような愛に出会った瞬間の、視界を蹌踉めかせるような忘れ難い閃光を、人は天使と呼ぶのか。眩い大きな事件に絵の具を線を寄せて心を綴ることの喜び、その行為を『エンジェリック・カンヴァセーション』と呼ぶのか。綴る言葉以上の存在に見守られ、身を焼かれながらに味わう至福の時を天使と呼ぶのか。美の最も完全な状態、バルザック『セラフィタ』のような存在を愛した時、天使的な炎が燃ゆる階段に足をかけることになるのだろうか。

 荒凉とした、不毛とも思われる地において肉体や視線を寄せ合う二人の若者、天使二人。だが愛で燃ゆる彼らには言葉での“カンヴァセーション”は必要が無い。全ては光が知っている。本作は光で出来ている。荒廃した世界の中で水面が、金網が、光によって描かれ、男たちの頬や指先に光が口付けている。「煌めく光の中の君を拝めたのなら、私の目は祝福に震えるだろう」言葉、それは分節線によって区切られた、紙面の小さな紋章のようなものである。いくら精緻に恋人の顔を愛を語れども恋人を語れどその顔が浮かび上がることは無い、だが映画には視覚的なイメージがある。愛で光を描けたなら、愛の言葉を暗闇に放りそれが光となったなら…言葉も知らない風景を描くことができたなら。書かれたことより強く強熱を秘めた「言葉のない風景」「言葉による、会話の無い風景」それを描くのは光である。

 修飾を排し身を投げ出すように綴られた、抑えきれない赤裸々な愛の告白、呟かれる詩が粗々しいフィルムに発光し、縦横無尽に走る閃光に感傷的かつ情熱的な、どんな恐怖も厭わないような美しい叫びを受肉し、訴えかけさせる。デレク・ジャーマンはこの世のものではない、とまで思われるほどの愛を賞賛し、映画という虚構の中で燃え続ける不朽の光に感情を託したのではなかろうか。

 天使。愛の中に美を、芸術を見出し、そして再び芸術に昇華させる道を選ぶ者というのは、きっと天使であるに違いないのだ。五十二歳でこの世を去ったデレク・ジャーマンは我々に映像という詩を残し、肉体から離れて永遠に天使の生を生きている。 


(和泉萌香)

ファンタジー世界を舞台にしたゲームには

ほとんどの場合モンスターが登場する。


モンスターたちはプレイヤーの操る

キャラクターの障害として立ちふさがり、

時には仲間になったりもする。


それぞれのゲームによって

モンスターの立ち位置は大きく変わるが、

ゲーム世界に欠かせない存在だ。


そんな脇役たちについて

ゲームを制作する立場から

思うところを書いてみたいと思う。



さて、第一回はとても有名なモンスター

スライムについて語ってみたい。


スライムとは、どろどろねばねばした物体を

指す言葉で本来怪物の名前ではない。


しかし、どろどろねばねばというのは

容易に嫌悪感を掻き立てる形質である。

打ち倒すべき敵の性質としては悪くない。


想像でしかないが、スライムというモンスターを

発明したクリエイターは

初めは気持ち悪い敵、程度の認識で

自分の作品に登場させたのではないだろうか。


スライムは近代的な怪物である。

粘菌や極小の原生生物に着想を得て

生み出されたであろうことは想像に難くない。


つまり、生物学の発展によって

語られるようになった

新しい怪物のイメージなのだろうと思う。


古今東西の神話や伝承に

登場する怪物ではないということだ。


伝統的な怪物と異なり、

この新しい怪物は“科学的”に

その生態が設定されてきた形跡が見受けられる。


スライムは原始的な食欲のみの怪物であり、

切断しようがすり潰そうが群体を

死に至らしめることはできない。


触れたものは何でも消化吸収してしまう

大変恐ろしい怪物だ。

映画の題材になったことで

このイメージは一般化していく。


火というわかりやすい弱点を持つことも、

最終的に人類が叡智によって勝利する

対象として大変都合が良い。


ところで、どろどろとしていて、

際限なく何でも飲み込んでいく恐ろしいもの。

それは自然界にひとつ存在する。


溶岩、いわゆるマグマだ。

もしかするとスライムという怪物のイメージには

このマグマも重ねられているのかもしれない。


ここからマグマスライムという

火に強いスライムを考えることができる。

だが、こいつにも弱点はある。

冷却してしまえば固まるのだ。


ファンタジー世界には概ね魔法が存在し、

吹雪を起こすようなことが可能である。

こういった上級魔法を操ることで

退治が可能なマグマスライムは

通常より強いスライムとして活用できる。


そう、ゲームのモンスターには

進行度に応じた強さの設定が必要なのだ。


毒素を持つなど色々な種類を用意できる

スライムは、このバランス調整に都合がいい。

ファンタジーゲームの定番となるのも当然だ。


日本でまだロールプレイングゲームというものが

メジャーではなかった頃、

つまり紙と鉛筆とサイコロを使っていた頃、

これを簡略化したビデオゲームが登場する。


誰もが知る有名作品なのだが、

不思議なことにこのゲーム、

前述の恐ろしい怪物スライムを

最も脅威度の低い最弱のモンスターとした。


しかもその見た目はどろどろねばねばしておらず

間抜けな愛嬌のある顔がついていた。

このスライムは後にタイトルの看板を背負う

マスコットキャラクターになった。


従来のスライムとは似ても似つかない

このモンスターはロールプレイングゲームに

不慣れなプレイヤーたちに

何の疑問も無く受容されていく。


するとどうだろう。

後発のゲームは序盤の弱い敵として

スライムを念頭に置いた、

ぷるぷるとした愛嬌のあるモンスターを

当たり前のように出すようになっていったのだ。


もちろん、従来のイメージに近い

武器の通用しない厄介な敵として

登場させるゲームも少なくはない。


しかし、一度人口に膾炙した“弱い”イメージは

なかなか抜けるものではない。


それを逆手に取って、昨今流行りの

異世界転生モノではスライムと侮って

危険な目に遭う描写も見受けられる。


私個人の考えとしても

スライムが弱いとは思えない。

先述の通り、火や魔法を使わなければ

倒すことのできない強敵であるべきだ。


単に武器で殴れば倒せるのではなく、

有限のリソースを割いて

撃退しなければならない厄介な障害。

プレイヤーに適度なストレスを

与えるのにちょうどいい。


ところで、自分で一からデザインできる

ゲームであれば自然災害クラスの存在として

スライムを登場させてみたいと思う。


森を飲み込み、村を飲み込み広がり続ける脅威。

それが都市へと迫りくる。

こんな状況、強大な魔法でもなければ

切り抜けることができないだろう。


魔法というファンタジー世界特有の切り札を

印象付けることのできる見せ場だ。

大魔法使いの強さを表現できる演出でもある。


それにしても、なぜあの有名作品では

身を守る毛皮も鱗も無く、

敵を殺傷する牙も爪も無い、か弱い存在に、

厄介なことで知られていたスライムという

怪物の名前を付けてしまったのだろう。


名前付け。ネーミングは

ゲームに登場するモンスターの制作に

必須の作業である。


何故その名前を付けたのか首を傾げたくなる

モンスターはあちらこちらで見受けられる。


ここはひとつ、次回は有名な怪物を例に挙げ、

モンスターの名称について

気になっていることを語ってみようと思う。



泉井夏風(シナリオライター)

 いつを起点にすればよいのかよくわからないが、コロナ禍と呼ばれる状況になって、少なくとも半年以上が経った。

 この間、多分にもれず諸々の制約を受けながら日々の生活を送ってきたわけだが、自分にとってもっとも大きな変化とはなんだったのだろうか。

 やがて事態が終息に向かい(そう願いたい)、時が過ぎていくにしたがって、記憶も、今この時の感覚も、間違いなく風化してしまうだろう。

 記憶と感覚の片鱗だけでも留めおくために、コロナ禍下での雑感を記しておきたい。



 あらためて、この半年間で、自分にとってもっとも大きな変化とはなんだったのだろうか。

 不特定多数の人々と相対する接客業に従事している私あるいは同僚にとって、これまでの状況は、恒常的に緊張を強いるものだった。

 リスクを回避するため、本来であれば1年の中でももっとも賑わうはずの繁忙期に休業を余儀なくされたことも、苦渋の記憶として残り続けていくだろう。

 ただ、これらの感覚や記憶は、この状況下では「致し方ないこと」として自身の中で整合的に処理されているのか、今では特別に違和を覚えるものではなくなっている。

 私が鈍感すぎるのかもしれない、が、人間の順応とはすごいものだなとあらためて思う。


 はたして、未消化のまま処理できずに維持され続けている感覚などあるのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、頭にふっと浮かんだのは「地元」という言葉だった。



 私は現在、神奈川県西部の小田原という街に暮らしている。

 都内と横浜で12年暮らした後、4年前にこの街に越してきた。

 越してきた、といっても、もともと生まれてから20歳に至るまでを過ごした土地なので、一般には「地元に帰ってきた」というべきなのかもしれない。たしかに、20年を過ごしたのだから、それなりに土地勘や思い出はある。自分にとって特別な土地であることも確かだ。だが、かねてからこの「地元」という言葉を口にするたび、そこに実感がともなわないというか、いまひとつピンとこないところがあった。


 写真1 “城下町”小田原を打ち出す駅前の商業施設。今年の12月にオープンしたばかり。



 写真2 深夜の早川漁港。小田原駅からだと歩いて30分ほど。



 そもそも「地元」とはなんだろうか。試しに手近な国語辞典を引くと「自分の住んでいる土地。また、出身地」とある。この定義に従えば、小田原は、紛れもなく私にとって地元である。しかし、日常会話の中で「私の地元」と口にする際、そこには単なる出身地とは異なる、ある種の帰属意識が働いている(あるいは求められている)のではないだろうか。

 そこで派生的に「地元意識」という言葉を検索してみたところ、『世界大百科事典』には、概ね次のような解説が記されている。


 「自分の出生地、居住地あるいは勢力範囲である地域に対してもつ意識。郷土意識が異郷、おもに都市にあって芽生えるのに対し、地元意識は中央を意識することから生まれるものといえよう」


 ここでは、「地元意識」と対比的に「郷土意識」という概念について言及されているが、興味深いのはいずれも「中央/地方」という二項を互いに意識しつつも、どちらの側に視座をおくのかによって意識の芽生え方に異なりがあるとしている点である。ふたつの概念を対比させることで幾分すっきりしてくるのは、私がかねてから抱いていた我が街への意識には、地元意識よりも郷土意識に近い側面があるということだ。そして、そこには私の個人史が少なからず反映されているのだと思う。

 先ほど、私は小田原で20歳に至るまでの時間を過ごした、と書いた。しかし、より厳密にいえば、私がこの街を出たのはそこからさらに8年をさかのぼる。


 写真3 神奈川と誤解されがちな町田だが、私にとっては初めての「東京」だった。



 かつて市内の小学校を卒業した私は、公立の中学校には進まず、東京の中高一貫校に進学することになった(とはいえ、東京・神奈川の境にある町田市である)。進学後、交友関係が広がるにつれ、遊び場も学校近くの盛り場から徐々に都心部へと近づいていった。遊び盛りの高校生ともなれば、地元は寝に帰るか、友人との約束のない週末を過ごすだけの場所へと変わっていく。時折、自宅に友人を招いた際、あたかも小さな旅行をしているかのように興奮する姿を目にすると、なるほど、自分の住まう土地が彼らにとっては明らかな異郷なのだということを実感させられた。

 もちろん、生活の軸が都市部へと移ったからといって、私自身の視座が彼らと完全に同質化することはなかっただろう。遊び場だった町田の繁華街や都心も、彼らの多くが住まう東京・横浜の住宅街も、私にとっては変わらず異郷だった。しかし反面、自分の定点とするには確固とした存在感をもたなくなっていた我が街もまた、感覚のうえでは半ば異郷のようなものだったのだと思う。「郷土意識」が異郷(都市)にあって芽生えるのに対し、「地元意識」は中央を意識することから生まれるものであるとするならば、あの頃、異郷から異郷へと移動を繰り返す日々のなかで醸成されていった私の我が街への意識は、両意識の間を定まることなく動き続ける不安定な運動のようなものだったのかもしれない。



 小田原に戻ってからも、叶えば月に数回、都心に出かけるようにしている。とはいえ、訪れるのは決まって、自分がかつて暮らしていた街や、馴染みの深かった場所ばかりなのだが。別段、思い出に浸ることや、属していたコミュニティを懐かしみにいくことが目的ではない(それらがないとも言い切れないが)。かつて歩いていた場所、馴染んでいた土地をたどり直してみると、その都度なかなか面白い発見があるのだ。

 土地はささやなかながらも日々変化するもののように思う。そうした変化は、建物やテナントの入れ替わり、道路の拡張など、物理的な変化に由る場合もあるが、時を経てからかつて過ごした土地を訪ねると、当時は見過ごしていた路地に新たに気がついたり、記憶と実際の風景との間に齟齬があったりと、自身の主観に依存していることが多いことを知る。そうした発見からは、自分や土地の変化、時の経過を実感することもできるのだが、何より自分が見落としていたもの、記憶と実像との齟齬から、その時になってようやく(当時の)私にとっての、その街、その土地の輪郭が浮き彫りになるような気がして、その過程が面白いのだ。もしかすると土地の輪郭とは、そのようにしてしか描けないものなのかもしれない。

 もうひとつ、都心から帰郷すると、我が街の輪郭もまた、わずかながらも鮮明になるような気がしている。自宅の最寄り駅に降り立つ瞬間、自分が暮らす土地が、都市部にはない穏やかで清涼な空気に包まれていることを実感する。人々の歩く速度やリズムの違いからは、この街に流れる時間のあり方自体が、都市のそれとは微妙に異なるものであると思いたくもなる。中央と地方、かつて暮らしていた場所と今生活を営む場所。その間を誰に求められるわけでもなく懲りずに行き来しようとする営みの背景には、未だおぼろげな「地元」の輪郭、自分と土地の関係のあり様を描き直したいという衝動が根強く存在していたのだと思う。そのことを強く実感させられたのが、今回のコロナ禍だった。

 4月初旬に緊急事態宣言が発令されて以降、県境をまたいでの移動が制限された。必然、恒例の散策も中断せざるを得ず、それ以降、我が街を出る機会はほとんど失われた。幸いなことに大きな感染報告のない地元と、百の単位で日々感染者数が増減する都内。人の姿が消えた都心の風景を報道で見るにつけ、電車でわずか90分弱の距離に過ぎない都心と地元の間に、大きな断線があることを意識せざるを得なかった(もちろん、我が街もまた、コロナ禍下において変化を被らなかったわけではないのだが)。

 郷土意識が異郷(都市)にあって芽生えるのに対し、地元意識とは中央を意識することから生まれるものであり、私の意識はこのふたつの間をたえず不安定に行き来するものだった。しかし、物理的に移動が制限される今回の状況下においてはじめて、一方(地方≒地元)から他方(中央≒都市)を意識せざるを得なくなった。それは言い換えれば、自分の「地元意識」と向き合わざるを得なくなったということではないか、という気がしている。


(続)


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