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 とある場所で男と女が出会う。街角であってもカフェであっても、バーや映画館であってもいい。その出会いが単に一晩、一日だけの関係で終わりを迎えるものでも、あるいはそれから何日も何年もかけて物語を育んでゆくものでもなく、愛、そのもの自体に用意された出会いだったとしたら。日常になる事を望まない愛、一度に魂を燃やし尽くしてしまうような愛、日常から離れたところでないとそぐわないような危険な愛、生活の一部となる事を望まない愛を行う為に用意された爆弾のスイッチだとしたら。物語を紡ぐ前に愛の方から物語を望んだ場合、何が必要とされるのであろうか。愛を行う為に引き合わされた人間二人は、過食症のように時を貪りあって速度を早めていかねばならない。余りに大きく奇跡の光によって約束された愛を与えられた肉体と精神は、既存の時間軸で行ったらばきっとだんだん擦り切れ、茹だる夜に汗粒を敷き詰めた光沢の肌の輝きは失われていき、硬直してしまうだろう。虚構の世界ではしばし狂おしい蜜月の時刻に永遠の愛をとどめておくことが許される。それは愛の舞台を生きる登場人物たちによって「切断」されることも、または物語そのものによって終止符という名のホルマリンに漬けられることもある。本作は引き合わされたある二人が、出会いから最後までただ愛を体現し海に横たわるまでの様を激情的に描いた物語であり、過去も未来も感情までも必要としない。愛を描くためだけの物語は倦怠や二番煎じの苦悩が絡み合った日常や正気を排して、登場人物も愛のために出現する。

 トラウマを抱える言語学者の男と少女を心に宿したまま売れっ子歌手となった女の、たった三日三晩の愛を言葉が持ち得る血と汗を吹き出させるかのように眩く描いたラファエル・ビエドゥー原作『私の夜はあなたの昼より美しい』は、ポーランドの鬼才アンジェイ・ズラウスキー監督によって新たなキーワードを携え別の表情を見せる。そのキーワードとは「言葉」である。主人公リュカ・ボワイヤンヴァルはあるウイルスによって脳を犯されており、言葉を発し続けなければ失ってしまうという状態にある。リュカと全く突然に出会う女ブランシュは原作と異なり、特殊能力のある人物である。彼女は他者の背景を読み取ることができ、客の秘密や過去をカジノで暴露することで金を稼いでいる、欲望塗れの大人達に囲まれた“スター”である。韻を踏んでいるリュカの言葉は脈略が無くブランシュとも会話が噛み合っているとは言えないが、延々と言葉を発し続ける。反対にブランシュは「言いたいことが分からない」と言って泣く。ブランシュ=白と名付けられた彼女は他者が抱える時には真っ黒な腹わたを吐き出す為の媒体として登場する。ズラウスキー監督作品に登場する人物はほとんどが皆狂人とも言えるような過激で爆発的躁病の人物であり、言葉も行動もまるで嘔吐するかの如く爆速で流れ続ける。リュカとブランシュは『狂気の愛』(1985)の人物たちのようなまでのエキセントリックさは無いが、彼らの「言葉」が愛の物語の速度を早め、時間を喰らい、そして美しく作用していると言えよう。なぜならリュカの発する止めどない言葉は現前する物事から連想されるある種自我を超えた言葉であり、後半恐ろしいまでの愛に気がついたブランシュの叫びというのも、丸裸の言語だからだ。社会や倫理という枠組みの中にあっては、現実の言葉は仮面を要するが、リュカとブランシュはその仮面を、虚飾を排されており、「哀しい」「痛い」「欲しい」「愛している」その丸裸の言葉を燃やし尽くしていくことによって「何にも堕さない愛」が永久に残ることになるのである。

 損なわれることの無いある愛というのは、喪失を抱え続けることによって達成されるものでもあるかもしれない。肉体の不在を、それが起こり得ないということを所有し続けることによって。起こる前に失ってしまうというやり方によって。しかし本作の二人は灰色の肌をしたマネキン人形のようでは無く、肉体を思い切りスクリーンに晒しだす。ブランシュを演じるソフィ・マルソーの血ではちきれそうな生命力に溢れた、すべすべと躍動する大理石のように美しい身体の魅力が発揮され、重さを持った肉体もまた大輪の花火のように散ってゆく様が描かれることにより、鮮烈で立体的な感動を呼び起こすのだ。

 人はこの現実において…時間が支配する現実において、愛が日常と変わることを望まなかった時、日常となりようが無い愛に出会った時、狂気、と呼ぶのだろうか。そんな愛が突撃するようにやってきてしまった時、何を思えば良いのであろうか。本作のように、海に抱かれて眠ることを望むのだろうか。海はどの時代、どの場所にあっても、そんな恋人たちを待っているのだろうか。愛の舞台は、海に設定されることを望むのだろうか。大きな揺りかごに抱かれて、完璧と言える美しいものに身体を寄せて、永久に眠ることを望むのだろうか。


(和泉萌香)

 雨も日光もまるで人工の現象のような、不感症のアスファルトに覆われた都市、電飾の器官が昼にも夜にも張り巡らされて人々の眼球に無性格の表情を押し付ける都市。地下鉄の曇った琥珀色の光、ビルの狭間で息を潜める木々の緑、ずっしりとした重さからかけ離れた陳腐な砂糖菓子のような言葉と色が溢れた都市の皮膚を剥がしてしまえば、いや凝視し続けてみれば、そこにあるのはまるでブラザーズ・クエイ監督作品『ストリート・オブ・クロコダイル』の如く灰色の舞台なのではないか、とふと考えてみたことはないだろうか。病めるがらんどうの瞳が持つ猥褻さや退廃の極致が放つ魅力には欠けている現代都市、硬直したまま時を過ごし続ける地区に生まれた者たちは「熱意も興奮も全てが、不必要な努力の中へ、無駄に失われた追求の中へと蒸発して消えていかなければならない」灰色を故郷とする。

 老人が涎を垂らし、鮮血が無慈悲な官能をたたえてこびりついた刃物が回転し、その世界が動き出す。男の人形が彷徨い通り抜けていくのは誰もが体験し得る時間の流れから見放された、逸脱した世界…死を繰り返しながら無限の繁殖力を持つ博物館、パサージュ風の租界だ。汚れの積もった鏡のような、大ガラスのような板の向こうに延々と灰の振りかぶった街が続いている。粉塵や砂鉄が蝟集する退廃の小部屋で、艶かしい肉を孕んだ時計が釘を量産し、無機物が恍惚に喘いでいるように思われる。ぽっかり頭部に穴が空いた人形の頭に詰められているのは綿毛か、麻屑か。針を指揮棒のように携えて人形たちがゆっくりと動き出す、仄暗い遊戯の開始を知らせる瞬間に起こる異常な興奮。「人間という材料の安価なこの街では、奔放な本能もなければ、異常な仄暗い情熱も入り込む余地はない」ブルーノ・シュルツが描き出した、何事も決定的帰結に達することのない、模造品や古新聞の切り抜きで構成された租界、薄っぺらい思いつき、複製された感情がにょきにょきと発芽して灰色の厚みを深めてゆく大鰐通りの世界は、粗悪で堕落の匂いをたたえた半端者の人形や古びて黴のこびりついたある種の遺品で構築されたブラザーズ・クエイによるこの映像が素晴らしくふさわしい。『ストリート・オブ・クロコダイル』は原作者ブルーノ・シュルツが作品においてしたためた、物質が持つ繁殖の力を、隠された未知の生命を、無機物が備えた毛穴や産毛を、暗がりとの孤独な交信を映像によって蘇らせていると言えよう。ポーランドに生まれ、ゲシュタポの銃弾に倒れた“溺れた狂人”作家、ブルーノ・シュルツ。第二の創造主として疑似生物を大きな無慈悲な四季に、街の歪みに産み落とした彼の物語にはグロテスクで、臭気や過剰なまでの色彩がじっとりと交配しており、気怠く淫らな時間と空間がある。

 シュルツの宇宙を、彼が書いた花片や鱗片や胞子を砂鉄や釘に姿を変貌させ、再び四方八方が灰色で囲われた黴臭い空間として出現させた『ストリート・オブ・クロコダイル』。粗悪品が犇いた都市に生み落とされた部屋の虚しさがありながらも、それを超えて孕んでいる本作の魔術的魅力は、現代社会に決して汚されることのない病に浸った患者たちの誘惑である。鬱々と枯れた灰色の街を仄暗い情熱と無頼者の笑顔で闊歩する術を教える作品である。不格好な無機物たちのロンドの冷めやらぬ狂熱が、欠陥品に宿る美が、暗黒に接吻された美が解き放たれ、不条理が巣食う日常という仮面を被った現代社会に再び忘れ去られた探究心と指に宿る繁殖力の可能性をうたわせる混沌と艶めく世界であり、官能と秘密を追求する者たちにドス黒い誘惑の火をつける映画である。そして疲労の靴を履いた我々を幾度となくおびき寄せ、悪戯な不毛を弄らせる映画なのである。


(和泉萌香)

 まるで取り憑かれた様に何度も何度も、その世界で眠りに落ちたいと願わせる様な映画がある。『去年マリエンバートで』が持つ重力は絶対孤独の位相にて咲く絢爛の美である。紛れもない愛の映画でありながら、体温が通った官能は葬られ、流れていた血も凍結し、モノクロの画に散らばって輝く。不滅と別離、接触と拒絶が重なり合う様に銀幕の標本に封じ込められた本作は、指にいまだ残る在りし日の恋人の芳香に言葉を傾け、迷宮に出向く倒錯に愉悦を覚える独身者たちの映画だ。

 独身者たち…同じ時間軸、同じ空間での逢瀬が叶わない恋人たちがいる。亡者である様な恋人への呼びかけ、接触が叶う事の無い人物に対する呼びかけ、不在へ呼びかける行為に甘美を噛み締める者たちがいる。永遠の愛を所有するということは、無機的な匿名の者、美しき彫像に恋人の言葉を語らせる試みでは無かろうか。デルフィーヌ・セイリグが演じる女Aが銀幕にて示す、灰色の陶器の様な肌。体温を破棄した聖なる匿名性を与えられた女、羽根つきのケープやら、シャネルの壮麗な衣装と装身具を灯りのもとに煌めかせる女は、デュシャン『大ガラス』にて独身者たちへ火花を散らす麗しい骸骨の様であり、男の悲痛な呼びかけの周りを飛び回りながら拒絶の放射物を描く夜蛾の様である。多くの創作者たちは、この世界では実現する筈もない永遠の愛への欲求を言葉とイメージに、それらが生み出す装置に託してきたのでは無かろうか。彼、彼女は遠くにいるのか、それとも既に死んでいるのか? 愛の挫折は独身者たちの内部で燻る不死性への欲求を機械装置へと向かわせる。記憶の底で煌めく恋人の微笑みを、涙を、絶望に打ちひしがれた顔を、慄く姿を、ノン、と囁く唇を、人工的な分身を生み、無限に反復可能とする映画という装置で描き出した本作は、アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』で無人の島に延々と映写され続ける映像の様である。

『去年マリエンバートで』は亡者と化した恋人が、腐敗直前で凍結した蜜月が、再びこちらに向かって大仰に振り返り、微笑み、睨みつけ、冷感症の接吻を浴びせる映画である。瀟洒な孤独が犇く廊下を一歩、また一歩と進むごと立ち昇る閃光に微睡を与えられる映画である。美しい睡眠の映画である。厚い絨毯に沈む音、化粧漆喰の繊毛に宿る音、流れゆく言葉と映像が物憂げに愛撫しあっては愛の記憶を幾重にも産み続ける、その様を暗闇で目撃することを許された眼科医の証人たちは、夢魔を意識しながら眠りに落ちてしまう。叫びの映画である。甘美な記憶に走る亀裂から悲痛な叫びが走り出す。推測や希望、現実が鬩ぎ合い、対立し合うひとりの男の内的独白の叫びが凍結し、彷徨い続けている。

 そして『去年マリエンバートで』は確かに愛の映画である。独身者による愛の映画である。

 「まるで耳自体が…またしてもこの廊下を歩き、古い時代の建物の広間から広間、回廊から回廊をよぎる。豪奢な、バロック調の、陰鬱で宏大なホテルの廊下は果てしなく続く…」ガラスの破片を、壊れたハイヒールを、砕けた石柱を掻き集めるが如く、愛の思い出を手繰り呪いの様に繰り返される言葉によってその場所は精製されてゆく。暗く冷たい装飾が過剰に施され、分断された記憶の底に直立する彫像たち、作者によって無機的な匿名性を与えられた人物たちが佇むマリエンバートの洋館は、切断された情熱を受け、視覚や聴覚の複製に永遠の愛を託す事を決めた独身者が棲まう場所である。凝固したポーズの彫像と花崗岩の敷石の間、恋人とふたりきり、迷宮で永遠に迷い続けることのある種の幸福、独身者たちから差し伸べられた誘いの言葉である。感情の曖昧さに、記憶の混沌に、愛への希求が交錯するごとに、マリエンバートにそびえる洋館は姿を現す。痛ましく、熾烈な呼びかけに身を任せ、とめどもない円環に寝そべった、静止する暗闇より歩み出た恋人が、もう一度こちらに向かって微笑み、麗しく睨みつける様を目に焼き付けたいと願う時に。


(和泉萌香)

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