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 青が浮かび上がる。濃密な青だ。全てが詰まっていると思わせ、心が海に包まれて澄み切っていくような青、最も美しい夢の子宮を思わせる青、感傷は無く、穏やかに深い思考へと誘うような青が。ガブリエル・ヤレドの音楽が美しい孤独に口付けられた夜に寄り添う様に流れ出す。本作の登場人物、激しい性格を持つ女性ベティの色は青である。


 ジャン=ジャック・ベネックス監督による『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』は男と女が激しい愛に溶け、女はその気性の為にあちこちで衝突を引き起こすが、男はそれでも変わることなく彼女を愛し、だが女は次第に理性を失っていくという、第三者から見れば“狂気”とも捉えられる異常な物語である。だが本作を“恋愛の”映画として見ることは少々短絡的であろう。確かに、ベアトリス・ダル演じる野生的な官能を持つ女、“絶対”を求め、あらゆる事に逡巡しない女ベティと、彼女がいかなる奇行に及ぼうが愛し続ける男ゾルグの姿は、蜜月以外の時を排した時刻の中のみで生きるあらゆる恋人たちと同様に危うい吸引力を備えている。だが本作が人間ふたりによる“恋愛”の物語に止まらないのは、それは過激とも言える執筆、創作への渇望と文学への信仰が核に据えられているからであろう。

 映画では“結合”が印象的に表れる。始まりはゾルグとベティのセックスシーンである。ふたりは互いの過去や詳細な情報を持ち合わせておらず、また出会いのきっかけも描かれない。彼らは物語の最初から“愛し合う者たち”としてだけ存在するのだ。酒を飲むシーンでは、ゾルグはテキーラとシュウェップスを混ぜ合わせる。そしてベティの象徴は青色、ゾルグの色は青の反対色の黄色なのである。青のワンピース、アイスキャンディ、夜の天蓋の色は青。ゾルグは黄色のタンクトップやジャケットを纏い、彼の頭上には蜂蜜の様にまろい黄色の陽光が降り注ぐ。ふたりの青と黄色は時に同じ部屋の中で混じり合い、ピアノの旋律と共に世界から隔絶された静謐な舞台を演出する。ベティはどこからやってきたのだろうか?彼女は、ゾルグのただの“恋人”なのだろうか?ゾルグは海辺のバンガローでペンキ塗りの仕事をこなし日々を過ごしているが、彼にはかつて行っていたことがある。執筆だ。それを知ったベティは彼に伝える。「あなたは素晴らしい作家よ」そして彼女は家を大胆にも焼き払い、単調に仕事をするゾルグを見れば時に叱咤し、何度も伝え続けるのだ。「あなたは作家なのよ」冒頭、ふたりのベッドに掛けられている絵画は「モナリザ」である。また劇中こんなやりとりも行われる。男がゾルグに尋ねる…「君はどんな小説を書いているのか」ゾルグは答える。「推理小説だよ」だが再び同じ質問を投げかけられれば今度はSFだよ、と答えるのである。「モナリザ」に象徴される様に、ゾルグは自分が行いたいこと=執筆に対して曖昧さを抱いていると言えよう。だがベティが正気を失っていくごとに、彼は再びペンを取り、夜の最も深い時刻においても、美しいと感じられる文章を綴る様になっていくのだ。ゾルグもベティの為に強盗を働いたり、問題を起こして警察と出会ったりするものの、その度にユーモアある理由で見逃される点も面白い。詩人コクトーはジャン・マレーへの手紙で「僕は君から始まり、君で終わる」と書いたが、まるでゾルグもベティによって生まれた子供、まだ世間に縛られる必要の無い子供と変わらない状態であり、“初めて”人生を生きている様だ。

 時に常軌を逸した行動に及ぶベティを見て、友人たちは「狂人」と言うが、ゾルグはその憐みと節句混じりの“狂人”の言葉には激昂する。だがゾルグは狂気を否定しない。フィリップ・ディジャンの原作の言葉にある様に「普通を突出した面白いもの」であり、映画の言語によって自分とは異なる“狂気的な存在=ベティ”との融合が生起するのである(これを提供してくれないだろう、と言う事を理由にゾルグは他の女性とのセックス=融合を断っている)。原作小説に、ディジャンの創作への信念が垣間見れる一文がある。「連中は愛もなく、狂気もなく、エネルギーもなく、そして何よりもスタイルが全くない小説を垂れ流していた」社会で生きていく上で日々の生活は送らざるを得ないが、湧き起こる創作への欲求、真に耽溺するには、それはある種の覚悟、常識を超えた覚悟が必要とされるのでは無いか。その必要な“狂気”を備えたベティは、ゾルグの作家と言う自我に身を潜めていた存在なのではないだろうか。映画の終盤、二つの場面で突如ゾルグは女装を始める。女の性を持つベティとの融合を果たしたと言う様に。そして、最後ベティはゾルグの元から姿を消すが、それはベティ=狂気との融合が果たされ、作家として生きていく事を決意し、彼が“ベティ”の名前を持った存在は必要が無くなったからではあるまいか。

 映画では男にゾルグと名前が付けられているが、原作では主人公は終始一人称の“僕”であり、名前を持たない。まるで『ファイト・クラブ』の様に、読者は“ゾルグ”なる人物の話ではなく、自分たちの物語としても読むことができるのである、「分散ではなく、集中することに決めた」狂気を味方に、書き続ける事を決意した作家の美徳的な声明であり、そしてまた単調な毎日や消費される生活に区切りをつけ、己が真に成したい物事への探究と集中を喚起させる、人々への情熱的な賛歌なのである。 原題は37.2度、これは女性が最も妊娠しやすい体温と言われている。リルケが「想像する最も深い体験は女性的である。と言うのは、それを受胎し分娩する体験だからである」という言葉を残しているが、世間に迎合しない作品を創造する時刻を懐胎の温度になぞらえ、男と女の“現実では養いきれないくらいの体験”のプロットを取り、激越な表現と魅力をもって描かれた『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』は美々しい神話として我々を熱狂させ続ける事だろう。消えることの無い青、それは美しい狂気で養われた色、創造の肉の色、たったひとつの愛を司どる色、愛の器官の色だ。


(和泉萌香)

 映画は動くものだ。物語、起こることを流動する暗闇と光と色彩で描くものだ。『インディア・ソング』(1975)の映像は、登場する彼らは、太陽であってさえも、ぴたりと凝固したように静止し、時折緩慢に動きを見せるだけだ。あなたの沈黙、胸が張り裂けそうな彼女の沈黙は、泣き声は、眩暈は、映画の静止が請け負っている。微かに揺らめいているのは線香の煙だけ。もうここには霞しかないというように。あなたの物語を大きく占めているものはもうひとつ、喪失だろう。欠如。忘却。失うことによって、それを行わない、欠如させてしまう、ということによって手に入れる永遠。愛。『インディア・ソング』画面に登場する彼女…アンヌ=マリー・ストレッテルも、美貌の愛人たちも、副領事も、もうここにはいない。気が違うくらいの愛は終止符を以てして、死を以てして、喪失、忘却を以てして、あなたによって永遠となる。虚構の世界に刻印されることを許される。


 1930年代、カルカッタのフランス大使館。副領事は、大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルへの不可能な愛で狂気に陥る。決して動いてはいけない、目を瞑ってはいけない、そうして何も見ていない。目を瞑りなさい、視力を最も強めるために、だけれども何も映ってはいない。たじろぐことなく見つめられなさい、眠るように存在を発揮しなさい、女の黒衣のガウンをゆっくりと脱がせるように、浮かび上がる言葉、書かれようとしている言葉の旋律を受け入れなさい、そんな風に『インディア・ソング』は時間を奪う。そこへ帰してゆく。海に。くすんだ空、灰色とヴァイオレットが混ざったような空に紅の太陽が浮かんでいる。瀟洒な広間、森、乞食女…“声”は“かつてあった”出来事を語り、映像は“かつてあった”出来事をまるでさも“現在行われていること”のように出現させる。亡霊たちだ。アンヌ=マリー・ストレッテル。彼らは佇み、ピアノ曲のタンゴに合わせて緩やかに踊る。過去に進行していた物語、記憶。記憶はもう持ち主がいなかったとしても、そのものとして残り続けているのだ。持ち主を失った記憶は“映像”という媒体を借り、仮そめの姿を借りた亡霊たちが演じることにより、再び出現する。


 デルフィーヌ・セイリグ。愛の挫折があり、曖昧な記憶や不死性への渇望や願望が入り混じった迷宮で再びこちらに向かって振り返る、冷感症の女神のように存在してみせた『去年マリエンバートで』(1961)とは異なり、『インディア・ソング』では色づいた映像の中で蒼白な顔をして登場する。迷宮で彷徨っていた女は今、喪失が既に“起こった”仮そめの空間において背筋を伸ばし、見つめている…鏡を。そうして何も見つめていない。あなたのエクリールは、それから、官能でも満たされている。映画も官能で満たされている。それは月食の夜から滴り落ちるような官能。身体の内側で愉悦から生じる震えが起こり続けているような官能。目を背けさせながら、妖しげに指を深淵部に誘うような官能。冒頭に浮かぶ太陽から、デルフィーヌ・セイリグの美しい桃色の乳房で画面はいっぱいに満たされる。あなたが書いた言葉を借りるならば、彼女も雨の肌を持つ女だ。死んだはずの者たちから立ち昇る生花の匂いのような官能。あるいは熟しすぎた果実のような官能。東洋の湿度が、相容れない者たちを叫ばせるような湿り気、両腕を大きく広げた海が潮の匂いを恋人の肌に孕ませた官能。千人の女の憂いと眠りを一緒にしたみたいな女。デルフィーヌ・セイリグが演じる女にも、あなたが描いた女たちは皆死の力を隠し持っている。余りにも大きくて抱えきれない愛みたいに、その死の芳香が官能を呼び覚ます。あなたは、デルフィーヌ・セイリグは映画の涯からやってくると書いた。彼女は劇中鏡の中を出入りする。カメラの前から消えたと思えば鏡の中に姿を現す。鏡の奥からやってくる。鏡に吸い込まれてゆく、飲み込まれてゆく。書かれようとしている物事、呼び覚まされた記憶が再び身を潜めてしまうように、見つけられようとしているように。その最中も聞こえてくる“声”と、虚構の更に内部に行ってしまう彼女、彼らの姿というずれはますます狂おしい葛藤を連れてくる。


 あなたが出会った、死で養われる愛の中心にいた女。あなたは何度も書き直す、連なる鏡のように、記憶や姿を転移させてゆく。本作の後に制作された『ヴェネツィア時代の彼女の名前』(1976)に映し出されるのは、もはや上流社会の名残も無い瓦礫が散乱し煤けてしまったがらんどうの館。かろうじて差し込む白んだ陽光だけが柔い。『インディア・ソング』の音声が廃墟の映像に被せられる。彼…副領事が彼女に愛を告げ、絶叫に至る…カメラは“記憶”の眼差しとなり、終焉の館にて愛する女を探す。ひとつの物語が時を経て、再び同じ場所へ戻ってくること、言葉や音楽が視線と変わる、映画が起こす化学反応。あなたが描いた女は姿を見せずとも、あなたによって“語り直される”世界において死と生の芳香を滅させることは無い。あなたの女たちはそんな転移を、迷っていることも、迷宮をも受け入れる。愛を虚無を叫びを失われた全てを無意識と健在意識の狭間で立ち尽くす瞬間もその肢体いっぱいに受けて立っている。彼女は泣きたくなるくらいに全てなのだ。アンヌ=マリー・ストレッテルは。だから、海へと帰っていったのだ。


(和泉萌香)

 本誌とも所縁のある国文学者・松田修に、『日本人の旅意識』という小論がある。松田はこの小論のなかで、古代から近世に至る日本人に通底する旅意識として、いくつかの特徴的な要素を抽出している。ざっと取り上げると、往還性(故郷回帰)、流浪の無目的性、紀行の希薄さ、中央(ミヤコ)に対する地方(ヒナ)の従属の構造などである。いずれも多様な論点をはらんでいて興味深いのだが、松田は論を以下のようにはじめている。


「古代日本人のテリトリーは、かなり狭いものであった。たかだか半日、あるいは一日の行程で、すでに他郷であり、他国であった。日常の空間を離れ、非日常の空間に身を置く営為を、いつから旅と称したのか、私は知らない。

(中略)テリトリーのなれから、一歩ふみ出したとき、人は旅人となる。」


 自身のテリトリーの外部へと出ることを「旅」の条件とする松田の指摘は、別に珍しいものではない。もちろん、松田の指摘はこれだけに留まるものではない。「旅」とはしばしば「空間の秩序化・定着化に対して穿たれた人間の意志」と目されるが、我が国の伝統においてそのような主体的・能動的な旅のあり方は希薄であり、なおかつ多くの場合、旅人たる「中央人」はミヤコの優位‐ヒナの従属という空間の秩序を崩そうとはしなかったことを指摘する。こうした「中央/地方」の秩序、あるいは中央から地方を一方向的に眼差す視線の構造は、近いところではたとえば1970年代に国鉄(当時)の「ディスカバー・ジャパン」を強く批判した写真家・中平卓馬など、我が国においても何度となく批判されてきた根の深い問題系であると思われる。ただ、私が気にかかったのはその点ではなく、古代日本人のテリトリーが、半日ないし一日の行程で他郷・他国に至ってしまうほどに、「かなり狭い」ものであったという指摘の方だ。

 松田が指摘する古代日本人のテリトリーとは、小論全体の文脈に沿えば、「未知(地方・非日常)」に対する「既知(中央・日常)」の空間のことであり、旅とは「本源的な意味においては、既知・未知二つの空間のスタティックを破る機能」であるはずが、我が国の旅の伝統においては「既知の空間」から「未知の空間」を眼差すという秩序・構造が終始保持されていると松田は指摘する。松田のいうテリトリーが「既知(中央・日常)」の空間のことだとするならば、当時の日本人、正確には「中央人」にとっての日常の圏域とは、その境を越えるのに半日ないしは一日を要するほどに広い(・・)ものだったのかと、私は驚いてしまう。



 かつての「中央(ミヤコ)」を、現代の「東京」に置き換えてみるとどうだろうか。

 もちろん、両者を単純に同一視することなどできない。松田のいう「中央人」とは氏曰く「典型的には貴種」に属する人々であり、ミヤコに住まわっていた市井の人々をも含み得る概念なのかどうかは定かではなく、また現代の「中央人」とは誰なのかという疑問も残る。そもそも氏のいうテリトリーの狭さとは、ミヤコの物理的領土への指摘なのか、「中央人」の心理的領域を指しているのか、はたまたそのどちらをも含み得るものなのか……。ただ、ここでは氏の小論を学術的に考究したいわけではない(それは手に余る)ので、そこから派生する形で、大まかに現代の東京に暮らす人々にとっての、私的な心理的領域について考えてみたい。ただし、ここでも「東京に暮らす人々」などと一律に括れるわけもないので、以下、あくまでも私の個人的な経験に即した範囲での雑感であることをあらかじめお断りしておく。



 東京に暮らしていると、日常的に東京全体を意識する機会は少ない。稀に意識することがあるとすれば、旅先でどこから来たのか尋ねられた際や、地方と対比的に東京について話したり考えたりせざるを得ないときぐらいではないだろうか。東西、市区、鉄道沿線、駅、街区、通りなどなど、個人や文脈に応じて分割の単位は異なるが、多くの場合、東京はそこに暮らす個人の中で細分化されている。人々の帰属意識もまた、そのように分割されたいずれかの単位に属しているように思われるのだが、面白く感じられたのは、ある特定の場所への帰属意識は、その地に住まうに至る個々人のさまざまな動機に裏打ちされつつも、時に他者からの視線を多分に内面化しているように思われる点だ。


 当時は足を運ぶことの少なかった「恵比寿ガーデンプレイス」からの眺め

   


 私自身は東京に暮らした9年間を、恵比寿という街で過ごした。恵比寿を選んだ理由は単純で、通学していた大学のキャンパスに近かったこと、また親類の持ち家に安く住まわせてもらうことができたからだ。アクセスのよさに加えて、小洒落た飲食店の多さからか、いわゆる「住みたい街ランキング」の上位にあがる人気のエリアである。地元を離れての初めての生活ということもあり、暮らし始めて数年間は刺激的な生活を送れていたと思う。一人で酒を飲みに行くことを覚えたのもこの頃のことだ。

 新たな生活、恵比寿という街にも徐々に慣れはじめたころ、この街に暮らす人々・集う人々にある種の類型がみられることに気づきはじめた。いや、正しくは、その街に向ける人々の視線が一定のイメージにもとづいていることを知った。こう記すとなんだか大げさだが、たとえば居住エリアを尋ねられた際に「恵比寿」と答えると、ほぼ例外なく「洒落ているね」と返される。たしかに、洒落たもの、華やかなものへの憧れや愛着がないわけではなかったが、そのことを条件に住む場所を選択したわけではなかったので、毎度戸惑いを覚えた。ただ、周囲を見渡せばそうした趣味嗜好をもつ人々が多いことも確かで、自分自身、近所を散歩する際にもあまりラフな格好で出歩くことには多少の憚りがあったのだから、そのことにまるで気づかなかったわけではなかった(今にして思えばあまりに自意識過剰で恥ずかしくなるのだが……)。自分自身も、街に対して抱かれるイメージ、向けられる視線を少なからず内面化し、見合うように振舞っていたのだと思う。

 そうした自分の振る舞いに気がつくと、恵比寿での生活がひどく窮屈なものに思えてきた。そもそも学生・新社会人の身分では、物価相場の面でもかなり無理もあった。

 ちょうどその頃のこと、身体の調子を崩したことをきっかけに近所の銭湯に通いはじめたのだが(当時は恵比寿の街中にも銭湯があったのだ)、さらに調べてみると下宿先から自転車で10分強程の距離のところに源泉かけ流しの温泉銭湯があることがわかった。夏の夕暮れ時、さっそく自転車をこいで訪ねてみた。銭湯そのものも噂にたがわず素晴らしかったのだが、それ以上に心動かされたのは、長大なアーケード商店街と昭和名残の駅前飲食街をシンボルとした街の雰囲気そのものだった。品川区の武蔵小山という街である。

 武蔵小山もまた生活のしやすさから居住エリアとして人気があり、家賃相場からするとそう形容してよいのかはわからないが、ほどよく地に足のついた庶民的な雰囲気をまとった街だ。その日、銭湯あがりに駅前飲食街の立ち飲み屋で過ごしたひと時の心地よさは、今でも忘れない。誰かの視線を意識することなく、ラフに、一人で寛ぐ時間。懐の心配をする必要もない。街の雰囲気はもちろんのこと、ところかわれば人の心境もまたここまで違ってくるものなのだな、としみじみと思った。


「りゅえる」と呼ばれた昭和名残の駅前飲食街も整備され、今では見る影もない。  



 先に述べてきたことは要約すれば、街々によって雰囲気は異なり、その土地ごとで訪ねる人の心境もかわってくる、ということに過ぎないのだから、何も東京に限った話ではないだろう。わずかながら特徴的だと思えるのは、街々の雰囲気は、歴史や経済といったある程度自明的な要素にのみ依拠しているわけではなく、そこに住まう人々・集う人々の嗜好/志向に応じて醸成されるイメージ、そのイメージを内面化した人々の振る舞いによっても形づくられているということぐらいだろうか(この指摘も珍しいものではない)。

 ただ、松田の小論をきっかけに自身の経験を掘り起こしてみたかったのは、東京に暮らす人々、少なくとも当時の私にとっての「既知の空間」とは、半日はおろか、わずか10分強程でその境界を越えてしまう程に「かなり狭い」ものだったということだ。あの日、武蔵小山の駅前飲食街で感じた解放感は、恵比寿という街の中での自演的な振舞いからの解放であったと同時に、自分が日常的に身を置いている空間とは異質な、非日常の空間に身を置いていることによるものであったと思う。東京という都市には、おそらくこうした非日常の空間が点在している。もちろん、ある空間を異質なものたらしめる境界線は、個々人が抱いている日常空間の圏域に応じて変わってくるものなのだろうが、自身の経験に即していうならば、その圏域が東京全体を覆うことは日常的にはないだろう。「テリトリーのなれから、一歩ふみ出したとき、人は旅人となる」のだとするならば、わずか10分の距離でさえ、人は旅人になることができるのだ。


(続)


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