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映画評論 影との逍遥 第十六回「渚の果てにこの愛を」和泉萌香

 ミムジー・ファーマーという俳優を初めて知った時、小麦色の肌を激しく照らす真っ白な残酷な陽光の中で開いたビー玉のような瞳に、ふとデヴィッド・ボウイの影を見た気がするのは、なぜだろう。短く輝くが艶は感じられない不思議なブロンドと中性的な顔立ちのほかに理由はあった。『渚の果てにこの愛を』日本リバイバル公開版のポスターはミムジーの顔写真が大きく大胆に使用されており、その瞳は確かにこちらを向いていながら、彼女は何もない場所を——穴ぼこを見つめているのだと、そして僅かにひらいた桃色の唇は語ることはないと言いたげだ。美しく、それは恐怖を感じさせる魅力を持つ人たちがいる。冷たい炎を宿して瞳孔が開いているような、狂気を完全に味方につけて、歪で破滅的な舞台へその瞬きで、口付けで、笑顔で気に入った者を誘う恐ろしく美しい人、ミムジー・ファーマー。マリアンヌ・フェイスフルの可憐でおぼろげな魅力とも、“リリス”を演じたジーン・セバーグの夜の湖に接吻するミステリアスさとも、ミア・ファローのコケティッシュさとも異なる。その肢体と表情とはどこかあっけらかんとして、それでいて太陽が威力を発揮する場所でもその明るさを体内に吸収して独自の迷宮を作り出してしまう、深く生々しい艶っぽさがある。

 ミムジー・ファーマーは1945年、シカゴに生まれハリウッドで育った。映画に出演するもなかなか芽が出ず、一時期ハリウッドを離れてカナダでLSDを使ったアルコール中毒者の治療を行う病院で看護師を務めたことも。それからヨーロッパに渡りジョルジュ・ロートネル監督作品『MORE/モア』に出演、その激しい描写でセンセーションを巻き起こす。『渚の果てにこの愛を』はその後に製作された。物語の舞台は“どこでもない場所”、荒涼とした名無しの大地で繰り広げられる、変わった顔の恋の物語はジェーン・バーキン演じる『ジュ・テーム・モワ・ノン・ブリュ』にも通じる(本連載でも以前ご紹介した『ジュ・テーム〜』に出演したジェーンは、ミムジーと同じくショートカットで中性的な魅力を放つ)。だが、ジェーン演じるジョニーが愛憎入り混じる男たちの絆に翻弄され、最後は裸体という完璧に無防備な状態で荒野に曝されるのに対して、ミムジー演じるビリーはヴェールも何も無い太陽が燦々と輝く場所で波と戯れ、常軌を逸した瞳と笑顔で見える白い歯とによって物語の覇者となってみせる。それは、目をつけた男と自らをも破滅へ誘うことを決意した、死際直前の恍惚を肌の内側に秘めた女の、ある種の余裕である。“死の天使”という表現が似合う危うい女、それでいて健康的に乾いた舞台が似合う、なんともアンビバレンツなこと。物語において、ミムジー演じるビリーはその場所に訪れた若き旅人ジョナスを兄さん、と呼ぶ。彼女もその母も家出した兄/息子、ロッキーとジョナスを混同しているのだ。いくあてのないジョナスは訝しいままに街でビリーたちと過ごすことになるが、ある時彼女と関係を結んでしまう。本作はビリーの見る“幻”と欲望がひとりの男だけではなく、街を、物語を蝕んでゆくミステリーである。確実に終わると、終焉という名の破滅を知っていながら子供のように無邪気に戯れ、太陽に負けない笑顔を見せ続けるビリー。亡霊を求め、愛する男の影を重ね、生身の男を欲する女の特異な力強さ、正常なまま見ることを決め込む狂気の白昼夢、本作の無比の異常さはそこにある。

 ミムジーはその後もヨーロッパで映画に出演するが表舞台からはきっぱりと離れ、現在はハリウッドで美術、造形担当として数々の大作に携わっているという。自分の人生を歩み続けているひとりの女性はその瞬間だけ“死の天使”の仮面を被り、私たちに永遠に癒えることのない、秘密にしたくなるような傷痕を刻み付けてくれたのだった。


(和泉萌香)

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