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映画評論 影との逍遥 第十四回「影の列車」和泉萌香

 アドルフォ・ビオイ=カサーレスの「モレルの発明」が好きだ。現実においてある特定の瞬間を生き直すこと、ある特定の時間と空間での永遠の生への希求は叶わないが、今の時間を放棄して命を「記録者」に託してしまいたいというのは、多くの人々が内に秘めた願いであるだろう。科学者モレルは恋が実らなくても、宿命の美女と共に永遠に在り続けるために、自分の身体もフィルムの中に閉じ込めてしまった。その世界では確かにひとが生きているに違いないのだ、影のひと、影の悦び、影の哀しみ、交わし合う眼差しと言葉とがあり、死者の冷たさをたたえたままに、人工の月のしたに生きている。そこに生は無い。温もりは無い、灰色の世界においてのみ、時の反復は許されるのだ。映画が瞬いたなら記録は今一度再生され、映画が吐息を漏らしたならばフィルムの傷痕の裂け目から、もう一度時は呼び起こされる。もう終わってしまった出来事――終わってしまった生、終わってしまった死、それに愛、例え世界が滅びた後だって、秘密を抱えて微笑む海や湖畔を味方にして、フィルムは回り続けるに違いないのだ。無人の月夜に、再び亡霊は現れ、また自らのフィルムの裂け目に消えていく。ホセ・ルイス・ゲリン監督作品『影の列車』の、夜を超越した白昼夢のような、蒼色に覆われた、詩人が夢見るやさしい世界の涯のような場所、そこで映画カメラで撮影をしている人物ジェラール・フルーリが消えてゆく冒頭のシークエンスの恐るべき美しさはなんだろう。

 1930年代、パリの弁護士ジェラール・フルーリがル・テュイ湖周辺の風景を撮影し終えるための光の条件を探していたその日に死亡、その数ヶ月前に彼は家族映画を撮り終えていたが、それが遺作となった。劣悪な条件で放置されていた後に映画は修復。そのようなテロップから映画『影の列車』は始まる。フルーリが撮っていた(とされる)傷みの激しいモノクロのフィルムが再生、時折カラーの映像に変わり、フルーリ一家がかつて遊びにきた廃墟や住んでいた屋敷の映像も映し出される。そしてまた古いフィルムへと切り替わり、一家に秘められたドラマがこの記録を見つめる「第三者」によって少しずつ解き明かされていく。謎めいた物語の要素も魅力としてありつつも、フィルムの傷みとされる閃光、影と光、無人に近い鮮明なカラーの世界と、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、シェーンベルク『浄められた夜』(ゲルンは当初本作のタイトルを、『清められた夜』とすることを考えていたそうだ)など、引用されるクラシック音楽の呼応を堪能するものである。

 『清められた夜』という当初予定されていたタイトル、月と湖畔の象徴的なシーン。全ては、映画は月光によってできた影の蕩揺によってできている。本作は非常に「夜」の顔をしている。例え彩られようとも、静謐に静まりかえった、生きる者は姿を隠し息を潜め、かたちを持たずに時を飛び越えて逍遙する者たちが生きる「夜」の世界である。灰色の、セピア色の世界に閉じ込められた者たちが、束の間の間色を取り戻し、決定的と言える瞬間を演じ直すときのどこか切迫した表情。鍵となる女性の顔を何度も何度も、フィルムに託した記憶を追うのは第三者であり、この映画そのものだ。映画の記憶。死者である女性/影として永遠の迷宮を生きる女性を呼び覚ますのもまた映画である。

 過去の(あったとされる)出来事、思い出と、それを呼び起こす時間があることによって生じる、曖昧で掴みどころのない「記憶」。その「記憶」の持ち主がいなくなった時に再び息吹をあげる瞬間というのは、死者たちによって舞台が召喚される様子というのは、そしてそれを目撃した時には、私たちもまた影の列車への切符を渡され、秘密の王国へ招待されるに違いないのだ。映画の最後に幽霊のジェラールは、口笛で『舟歌』を吹きながら霧の中、ボートで漕ぎ出してゆく。フィルムが終わる一瞬に、巻き戻される瞬間に、フィルムのパーフォレーションに、私たちは記憶が生成され、時間が止まる時を垣間見る。あなたがいなくなった後も、どこかでそれは続いていく――『影の列車』は過去と現在の狭間、生と死の狭間に身を横たえる映画、不安と陶酔、蕩けるような美しさに満たされた、あなたも誰も知ることのない、映画の涯から手招きをする「映画」なのである。


(和泉萌香)

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