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映画評論 影との逍遥 第六回「ベティ・ブルー 愛と激情の日々」和泉萌香

 青が浮かび上がる。濃密な青だ。全てが詰まっていると思わせ、心が海に包まれて澄み切っていくような青、最も美しい夢の子宮を思わせる青、感傷は無く、穏やかに深い思考へと誘うような青が。ガブリエル・ヤレドの音楽が美しい孤独に口付けられた夜に寄り添う様に流れ出す。本作の登場人物、激しい性格を持つ女性ベティの色は青である。


 ジャン=ジャック・ベネックス監督による『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』は男と女が激しい愛に溶け、女はその気性の為にあちこちで衝突を引き起こすが、男はそれでも変わることなく彼女を愛し、だが女は次第に理性を失っていくという、第三者から見れば“狂気”とも捉えられる異常な物語である。だが本作を“恋愛の”映画として見ることは少々短絡的であろう。確かに、ベアトリス・ダル演じる野生的な官能を持つ女、“絶対”を求め、あらゆる事に逡巡しない女ベティと、彼女がいかなる奇行に及ぼうが愛し続ける男ゾルグの姿は、蜜月以外の時を排した時刻の中のみで生きるあらゆる恋人たちと同様に危うい吸引力を備えている。だが本作が人間ふたりによる“恋愛”の物語に止まらないのは、それは過激とも言える執筆、創作への渇望と文学への信仰が核に据えられているからであろう。

 映画では“結合”が印象的に表れる。始まりはゾルグとベティのセックスシーンである。ふたりは互いの過去や詳細な情報を持ち合わせておらず、また出会いのきっかけも描かれない。彼らは物語の最初から“愛し合う者たち”としてだけ存在するのだ。酒を飲むシーンでは、ゾルグはテキーラとシュウェップスを混ぜ合わせる。そしてベティの象徴は青色、ゾルグの色は青の反対色の黄色なのである。青のワンピース、アイスキャンディ、夜の天蓋の色は青。ゾルグは黄色のタンクトップやジャケットを纏い、彼の頭上には蜂蜜の様にまろい黄色の陽光が降り注ぐ。ふたりの青と黄色は時に同じ部屋の中で混じり合い、ピアノの旋律と共に世界から隔絶された静謐な舞台を演出する。ベティはどこからやってきたのだろうか?彼女は、ゾルグのただの“恋人”なのだろうか?ゾルグは海辺のバンガローでペンキ塗りの仕事をこなし日々を過ごしているが、彼にはかつて行っていたことがある。執筆だ。それを知ったベティは彼に伝える。「あなたは素晴らしい作家よ」そして彼女は家を大胆にも焼き払い、単調に仕事をするゾルグを見れば時に叱咤し、何度も伝え続けるのだ。「あなたは作家なのよ」冒頭、ふたりのベッドに掛けられている絵画は「モナリザ」である。また劇中こんなやりとりも行われる。男がゾルグに尋ねる…「君はどんな小説を書いているのか」ゾルグは答える。「推理小説だよ」だが再び同じ質問を投げかけられれば今度はSFだよ、と答えるのである。「モナリザ」に象徴される様に、ゾルグは自分が行いたいこと=執筆に対して曖昧さを抱いていると言えよう。だがベティが正気を失っていくごとに、彼は再びペンを取り、夜の最も深い時刻においても、美しいと感じられる文章を綴る様になっていくのだ。ゾルグもベティの為に強盗を働いたり、問題を起こして警察と出会ったりするものの、その度にユーモアある理由で見逃される点も面白い。詩人コクトーはジャン・マレーへの手紙で「僕は君から始まり、君で終わる」と書いたが、まるでゾルグもベティによって生まれた子供、まだ世間に縛られる必要の無い子供と変わらない状態であり、“初めて”人生を生きている様だ。

 時に常軌を逸した行動に及ぶベティを見て、友人たちは「狂人」と言うが、ゾルグはその憐みと節句混じりの“狂人”の言葉には激昂する。だがゾルグは狂気を否定しない。フィリップ・ディジャンの原作の言葉にある様に「普通を突出した面白いもの」であり、映画の言語によって自分とは異なる“狂気的な存在=ベティ”との融合が生起するのである(これを提供してくれないだろう、と言う事を理由にゾルグは他の女性とのセックス=融合を断っている)。原作小説に、ディジャンの創作への信念が垣間見れる一文がある。「連中は愛もなく、狂気もなく、エネルギーもなく、そして何よりもスタイルが全くない小説を垂れ流していた」社会で生きていく上で日々の生活は送らざるを得ないが、湧き起こる創作への欲求、真に耽溺するには、それはある種の覚悟、常識を超えた覚悟が必要とされるのでは無いか。その必要な“狂気”を備えたベティは、ゾルグの作家と言う自我に身を潜めていた存在なのではないだろうか。映画の終盤、二つの場面で突如ゾルグは女装を始める。女の性を持つベティとの融合を果たしたと言う様に。そして、最後ベティはゾルグの元から姿を消すが、それはベティ=狂気との融合が果たされ、作家として生きていく事を決意し、彼が“ベティ”の名前を持った存在は必要が無くなったからではあるまいか。

 映画では男にゾルグと名前が付けられているが、原作では主人公は終始一人称の“僕”であり、名前を持たない。まるで『ファイト・クラブ』の様に、読者は“ゾルグ”なる人物の話ではなく、自分たちの物語としても読むことができるのである、「分散ではなく、集中することに決めた」狂気を味方に、書き続ける事を決意した作家の美徳的な声明であり、そしてまた単調な毎日や消費される生活に区切りをつけ、己が真に成したい物事への探究と集中を喚起させる、人々への情熱的な賛歌なのである。 題は37.2度、これは女性が最も妊娠しやすい体温と言われている。リルケが「想像する最も深い体験は女性的である。と言うのは、それを受胎し分娩する体験だからである」という言葉を残しているが、世間に迎合しない作品を創造する時刻を懐胎の温度になぞらえ、男と女の“現実では養いきれないくらいの体験”のプロットを取り、激越な表現と魅力をもって描かれた『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』は美々しい神話として我々を熱狂させ続ける事だろう。消えることの無い青、それは美しい狂気で養われた色、創造の肉の色、たったひとつの愛を司どる色、愛の器官の色だ。


(和泉萌香)

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