映画評論 影との逍遥 第十七回「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23 番地 、ジャンヌ・ディエルマン」和泉萌香

 ――それぞれのショットに使われている時間を通し、見る人に身体的な体験をしてもらいたい。時間があなたの中で展開され、時間があなたの中に入ってくるという、身体的な経験をするために。


                          シャンタル・アケルマン


 牢獄は鉄柵なしに存在する。拷問は猛毒や鞭なしに存在する。絶望は、緩やかな波のリズムで、もしくは毎日の洗顔のスピード・・・洗剤の減り具合・・・湯を沸かす間隔・・・小銭を数える間隔・・・でやってくる。絶望、失望、絶叫にならないそれは日々彼女たちによって飲み込まれている。見えない鉄条網に、縄に、絡めとられている彼女たちの分泌物は私どもに様々な形で傷跡をのこすものだ。

 1932年、後にフランス映画で活躍し高い評価を受けることになる俳優、デルフィーヌ・セイリグはレバノンのベイルートで生まれた。スクリーンデビューを飾ったアラン・レネ監督『去年マリエンバートで』での役柄名はA、であった。匿名性の役でデビューしたこの女性はすらりとしなやかで、モノクロームの絵の中ではその物憂げな高貴さが際立ち、ふさふさとした豪奢な衣装に身を纏えど卑しさは廃棄され、血が通っていることも思わせない。それは決してマネキンと同義の女の冷たさでは無く、彼女だけが持つ「世界の涯」に似た魅力なのだ。この女性、デルフィーヌ・セイリグという女性はあまりに浮世離れした美貌を持っているのが理由のひとつか、人間ではない役柄や夢とも現とも分からない場所に出現する役柄を多く演じている。ジョゼフ・ロージー監督『できごと』では主人公の元妻として画面に現れるが台詞はオフの声でしか無く、彼女が実在し、主人公と逢瀬を交わしたか疑わしいほど神秘的だ。ジャック・ドゥミ監督『ロバと王女』では妖精役、ハリー・クメール監督『赤い唇』ではエレガントな伯爵夫人/ヴァンパイア役だ。マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』では大使夫人のアンヌ=マリー・ストレッテルを演じるが、こちらも白昼夢の中に生きながらえるように、亡霊のようにあくまでも曖昧に姿を現すが、彼女は強烈である。絶対に彼女でなかったら、物語はいけなかったと誰もが思うだろう。デルフィーヌ・セイリグは迷い人や時を超越可能な人物がお似合い、独身者にとっての花嫁であり、そして血が通い柔い肌を持った確かな人間であり、彼女が演じることによってその役柄は誰への承認も哀れみも必要としなくなるのである。また、彼女は性差別に強く抗議し、自らビデオカメラを手にとって女性たちの声を記録し訴えかけた不屈のフェミニストだった。

 シャンタル・アケルマン監督の『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23 番地 、ジャンヌ・ディエルマン』はとてもユニークだ。だがこれを見終わった後には、これが映画がもたらす美しさ、恐ろしさの到達点のひとつだと唸り、瀟洒なインテリアで彩られながらも隠せない、空間の息苦しさと痛ましさに震えるだろう。描かれるのは主婦、ジャンヌ・ディエルマンの日常三日間だ。未亡人の妻であり母親であるこの女は台所にたち、バスタブにしゃがみ込んで体を洗い、息子のために食事の準備をし、寝る場所を整えてやり、昼間は生活のために体を売り客をとる。肉の下ごしらえ、じゃがいもの下ごしらえ。買い物、朝のルーティーン、夜のルーティーン、料理、料理。衣服を着替える時間やヒールに足をいれる時間。この儀式のような日常に彼女は突如、爆弾を放つ。火を放つ。私どもが誰も読み取れないような表情とともにだ。執拗に日常、反復する日常を描き出し、一瞬でハサミで平凡な日々を裁ってしまう。映画という媒体を使い、アケルマン監督はひとりの女性の孤独と葛藤と静かな爆発とを、ほぼ「日常の中での身振り手振り」だけで描き出したのだ。三時間半近くを主婦、ジャンヌ・ディエルマンと過ごすことで私たちは共に息を詰まらせ、ささくれがゆっくりと増えてゆき、冒頭に紹介したアケルマンの言葉通り、時間が肉体に流れ込んでゆくのを実感することになる。何て重く恐ろしいのだ、一日という時間は何て長く恐ろしいのだと、真綿で首を眼を締められる思いになりながら。

 アケルマン監督の所持作『街をぶっ飛ばせ』では、アケルマン演じるひとりの女性が台所で料理をした後狂騒的に動き出し、台所器具を散らかした挙句、花束を手にコンロの上に丸くなって爆発音と共に物語が終わってゆく。共通するのは家/台所という場所に縛られている(ように見える)女性たち、女性像の破壊だ。『街を~』はヒロインの死が最後にあるも、画面が暗くなってから再び聞こえてくる女性の明るい歌声により突拍子もなく軽快な余韻を残すが、一方『ジャンヌ・ディエルマン』では彼女の「爆発」が起こった後、セイリグ演じる彼女がひとり複雑な表情を浮かべたまま、薄暗いリビングで座っている陰鬱な色の場面で終わってしまう。ぶっ飛ばせ、と言った女性はもう映画の中にしか――世界がもうアケルマン監督を喪失している――ひとりの才能に溢れる、大胆で美しく、聡明な女性はもう、いないのだ。その事実が悲しく胸に迫る。

 最後にかけて悲痛な迫力に溢れる『ジャンヌ・ディエルマン』だが、彼女のルーティーン描写はリズミカルな印象をあたえ、官能に満ちていることも事実だ。包丁の音、生肉と触れ合うパン粉、靴を磨く音、蛇口から垂れる水音、彼女の靴音がアンサンブルを奏で、デルフィーヌ・セイリグの優雅な身のこなしと気高く伸びた首筋、くるくると動き回る様はひとつの舞踏を見ているかのようである。反日常と日常が隣り合わせの、柵の無い牢獄/現代に生きる我々は、このフェミニストたちが作り上げた『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23 番地 、ジャンヌ・ディエルマン』の無比の蠱惑と中毒と、シャンタル・アケルマンが遺した素晴らしい映画たちを観る権利を行使し、思考しようではないか。


(和泉萌香)

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